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人事ブログ

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2025/06/03/火

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれー 先駆者列伝49:これからの25年を考える㊦

メディヴァやプラタナス、シーズ・ワンでの挑戦を温かくも厳しい目で見守ってくれた方々からお話を伺う「外から見た無人島」の後編となる。四半世紀に及ぶ取り組みについて、さまざまな視点から語っていただいた。

香取照幸さん(未来研究所臥龍代表理事)

厚生労働省で年金局長や雇用均等・児童家庭局長を務め、介護保険の生みの親の一人である。退官後はアゼルバイジャン大使を務めたほか、上智大学、兵庫県立大学の大学院でも教壇に立たれている。前回お話を伺った亀田信介先生、双子の弟である省吾先生とは麻布学園での同期生で、その縁からかメディヴァという会社ができたと聞いた記憶があるそうだ。

法人名にある「臥龍」は天にのぼる力を秘めながら機を待つ龍を指す。コロナ禍で社会が大混乱していた20年8月に、医療や介護の現場、アカデミズム、国や地方自治体の人々の研鑽や交流の場として私費を投じて設立し、次世代を担う人材を育てる決意が「臥龍」の2文字に託されている。

退官後も政府の全世代型社会保障構築会議のメンバーなどを務め、かかりつけ医の重要性を積極的に発信している。CCHが立ち上げられた頃に在宅医療連合学会で大石さんと一緒になり、同善会でも話をする機会があった。桜新町に住んでいるので、連載㊲で紹介したスパイナルケアにかかったこともあり、メディヴァにとって縁浅からぬ厚労省OBである。いま大石さんは「臥龍」の賛助会員として毎月開催される勉強会にも登壇し、積極的に参加している。

医療の世界に詳しい香取さんには、医療コンサルとはどうやって税金を払わずに事業承継をするか、診療報酬を増やすかを助言するものという印象が強かった。それだけに、当初からプラタナスの運営に携わり現場意識を磨いてきたメディヴァは面白い存在と映る。「現場に入ってのフィールドワークは本格的で、報告書を出したら終わりという並みのコンサルではない。ハンズオンで運営を担っている」と驚いたそうだ。

香取さんから「病院の価値は誰が決めるのか」と問いかけられた。株式会社なら株主を中心に考えるが、医療法人は収益を医療に還元する。つまり患者のために何ができるか、地域貢献をどうするかが問われるはずだが、オーナーが支配する中小企業の性格をもつ医療法人には独りよがりの面がある。これまでは医師がオールマイティでやってこられたが、医療保険財政が一段と厳しくなり、少子高齢化が進む中ではそのやり方は通じなくなる。その現実をデータをもとに医師に説いているメディヴァの姿勢を評価している。

一例が水海道さくら病院の再建である。最初に周辺の病院の配置、患者の分析から入っていった。市場分析は産業界向けのコンサルタントなら当然のことでも医療界ではその発想がなかったという。

メディヴァの強みを伺うと、即座に「ネットワーク」を挙げてくれた。病院を持続可能な組織にするため、人脈のアセットを使って多様な人材を投じていく手法だ。医師の世界をずっと見ていたので、何を言うと何が変わるのかが分かっているし、新しいやり方を入れると辞める人が出ることも織り込んだうえで対応していると見ている。新陳代謝が進むことで共感している人が集まってくる好循環が生まれる。

いま香取さんが注目しているのがCCHだ。日本の特徴は中小病院の存在であり、これをどう生かすかが医療改革の成否のカギとなると見ている。

香取さんは病院の歴史から説き起こしてくれた。明治以降、官公立中心の病院で医療体制を整備しようとしたがうまくいかず、民間の診療所が大きくなり病院になっていった経緯がある。日本の民間病院のほとんどが中小病院であり、機能分化が進んでいない。対照的に、諸外国には大病院と診療所の間の中小病院が存在しない。

急性期から慢性期に重心が移り、治った後も介護やメンタル、孤独・孤立などに対応しなければならない。それを受けとめることのできる中小病院とそこで働く総合診療的な医療のできる医師が大きな役割を果たす。中小病院は地域包括ケアの中核になる可能性を秘めているのだが、従来型の民間病院の経営者は、地域包括ケアや在宅医療、総合診療への理解が薄く、時代の変化に乗り遅れて経営が回らなくなる。将来性がなければ若い医師も行かず、放っておくと立ち枯れる。中小病院は日本の医療界の財産(アセット)でもあるが、今のままでは潰れていくだけだ。中小病院のリメークが大切になる。そこでCCH構想が注目されるわけだ。

「今後はサ高住のような居住系サービスに外付けで医療、介護が提供される形が増えていく。病院は在宅医療などのバックアップをすることになる」として、病院の機能の再定義が欠かせないと見る。医師にとっては、総合診療医から病院長、病院のオーナー、在宅療養支援診療所の開業という道も開ける。一石数鳥のCCHが実現すればみんなから感謝される存在になるだろう。

次の25年だが、「創業は易く、守成は難し」と語る。世代交代が進む中でも創業の理念を共有し続けることが求められる。新たな医療提供体制の作り込みのため、これから10年、15年の間にやっておかないとならないことは多い。一つ一つ確実にマイルストーンを設け、出口の形を考えたうえで、バックキャストで改革を進めていくことになる。その過程では、新たな世界に踏み出すような「核分裂もあるかもしれない」と見る。

年金問題は2040年を乗り切れば続くが、医療問題の山場は60年を超えると見る。今までやってきたことの延長にCCHがある。病院再生に求められるガジェット、つまり手立てや知恵は蓄積されている。「メディヴァの考え方が普通になり、蓄えたガジェットが生きるだろう」と激励を惜しまない。

石田岳史医師(東京科学大総合診療科教授)

メディヴァとの出会いは2002年。自治医大出身で義務年限を終えたころから循環器を勉強してきたが、総合診療に関心があって開業も考えた。そこで用賀アーバンを見学に行ったそうだ。患者のカルテが、いつでもどこでも、海外にいる家族でも見られるというのは衝撃的だった。

神戸大で地域医療を主宰したのち、さいたま市民医療センターを一から立ち上げた。さまざまな規模の医療現場に携わる中でコミュニティホスピタルづくりを考えるようになったが、雇われ院長ではオーナーと考えが合わないとうまくいかない現実がある。

久々に大石さんと会ったのは23年5月のことだ。40分間にわたって思いを語ったところ、しっかり耳を傾けてくれた。コミュニティホスピタルに興味があると言ったら、「一緒に組みませんか」という提案が返ってきた。

東京医科歯科大(現東京科学大)に移ったことでコミュニティホスピタルで働く話は一旦止まったが、一緒にやれないかという思いは続いた。本多病院(連載㊼)を引き受けるという話があり、それではと石川輝さんら3人の教え子を送り込んだ。今までの固定観念では、若手の医師は医局の教授に合わせていれば済んだが、これからは個々の医師の自主性や多様性が大切である。そうした信念のもとで育てたのが石川医師たちだった。本多病院では自らも理事に入り、院長に就いた石川医師の仕事を見守っている。

へき地医療をやったし、民間病院にもいた。病院経営の経験から、理念がとても大切だと考えている。自治体病院は政治のおもちゃになるリスクがあり、民間はオーナーがすべて。「メディヴァのCCHの考えはみんなで決めており、ミッション、ビジョン、バリューが私と一致した」と話す。まず教授として人を作ることに専念するが、その後は自分もやる腹積もりだ。

大石さんとは商社マンの家庭の帰国子女という共通点がある。大石さんには商社マン(正確には商社ウーマン)のようなところがあり、人と人、モノとモノをつなぎ、場を提供することが得意だ。自分の直感だけでは動かないことについては、ほかの人に任すこともやっている。また直球でバシッといくところも似ていると語る。

地域包括ケアを担う在宅医療には課題が大きいと強調した。在宅医療を手掛けている医師のうち一流といえるのは一割しかおらず、勉強不足が目立つ。こうした人に10年、15年やらせるわけにはいかないというのだ。今の在宅医療では患者の容態が悪くなると救急車を呼んでくれと平気で言う医師がいると嘆き、「自分のところでベッドを持っているのは重要だ。バックベッドを持った在宅医療がこれからの日本のビジョンだ」と強調した。

肝心の医師の育成については、CCHは藤田医科大や東京科学大と繋がり、餅は餅屋でいくのがいいという提言もあった。カリキュラム教育は大学と組み、OJTはCCH事業に参加するコミュニティホスピタルや関連医療機関でやるということだ。中小病院で働いているような医師の多くは臓器別の専門医である。こうした医師を、患者全体を総合的に診られる人材に変えたい。医療費の抑制から遠からず医療関係者のリストラも始まるだろう。今がチャンスともいえる。これからどうなるかと不安を感じている医師の受け皿となる。

これからの課題を伺うと、大きな構想を語ってくれた。メディヴァの事業にはもともと東急の資本が入り、沿線を住みよい土地にすることを目指したが、これからは日本規模で取り組む必要があるとする。たとえば、移送手段の確立や手術の集約化だ。緊急性の低い手術は実績のある専門病院に送り、一般の治療は患者が看護師の同席のもとでオンライン診療を受けるD to P with N、つまりナースがトリアージする時代になる。

経済成長が見込めないなかで大切な視点は、今ある医療リソースを効率的に生かすことだ。それには大石さんも関わっている規制緩和が極めて重要になる。羽田が近く、全国へのアクセスがいい本多病院などは新時代の医療に適している。病院中心に医師が出向く在宅に加え、北海道なども視野に入れた遠隔医療の拠点ということになる。

中小病院の再建では地域とのかかわりも大切だが、そのスイッチは入った。人材も育っている。限界集落そのものをどう看取るかという問題に直面するなか、患者を取り残さない仕組みを考えることだ。「メディヴァには社会を組み替えるビジョナリーカンパニーとなり、世界に羽ばたく会社になってもらいたい」とエールを送ってくれた。

大石晟嶺・富士フイルム メディカルシステム事業部

最後に登場してもらうのが、27歳の大石晟嶺さんだ。母佳能子さんが医療の世界に目を向けるきっかけを作った当人である(連載②参考)。現在は富士フイルムの医療機器部門の若手社員として飛び回っている。インド、ベトナム、モンゴル、中東など月に数回海外へ出張し、最近は母親とじっくり話す機会もめっきり減っているようだ。とはいえ、用賀アーバンを遊び場にして育っただけに、メディヴァなどへの思いは深い。筆者の中途半端な解説など無用だろう。ここは独白の形で紹介したい。

記憶に残っているのは、中目黒から用賀に引っ越した6歳ぐらいからかな。その頃は学校から帰ると家に荷物を置いてアーバンに行っていた。医療とのかかわりがある母親の職場で、医者はすごい人だと感じたことを覚えている。学校ではあまり意味も分からず、『母さんは社長だ』と言っていた。

高学年になるとメディヴァの活動の意義が分かるようになり、中学受験では医学部への進学も多い学校を選んだ。全生徒が始発で集合する剣道の朝練習があり、母親は睡眠時間を削って毎日弁当を作ってくれた。二度寝ができない人なので、ひどい睡眠不足だったようだ。

中学三年の時、進路を転換し留学したいと言ったら、母が探してくれた。米国と比べて銃器が蔓延していないカナダを選んだ。バンクーバーの東にあるチリワックの高校に留学した。周囲は農園や牧場で、鶏の声で起床するような暮らしだった。豚牧場で子豚の出産を手伝ったこともある。行った当初は全く英語が出来なかった。日本人は何人かいたが、選んだ授業で会うことは少なく、地元の生徒に交じって高校生活を送った。

大学は中央大の理工学部人間総合理工学科に進んだ。「人間」をキーワードに、「心と体」「自然との共生」の二つのテーマを分野横断的に学ぶ学部で、自分は脳科学、心理学、マーケティングを専攻した。新型コロナ期で十分な研究ができなかったので、大学院に進み、健診の結果を伝える際にARを活用することを研究した。

富士フイルムではインドをはじめ各国で健診センターNURAの立ち上げ、運営をやっている(連載㉒参照)。会社で上司となる守田正治さんは、中東担当だった時、王族といきなり仲良くなって大きな商売に繋げた凄腕営業マンだ。メディヴァと一緒に仕事をすることもあり、木内大介さん(現海外事業部グループリーダー)らと仲良しだった。その縁で以前から名前を聞いたことがあり、就職活動の時に話を聞きに行って感動した。ODAをやってみたかったが、守田さんがNURA事業を社内起業した結果、今の職場になった。型破りな守田さんの下に新入社員は普通配属されないが、医療現場を知っている、ということで即戦力として買われたのかもしれない。

人生設計にメディヴァの影響があったのは間違いない。医者になりたいと考えた時期もあったし、高校の卒業要件にボランティアがあったこともあり、夏休みに『ぽじえじ』で高齢者のリハビリをサポートしたこともある。新型コロナ期には職域ワクチン接種の現場監督をアルバイトながら担当し、医師、看護師、その他外部業者の取りまとめをした。担当部署は渋谷の東急不動産本社で東急関係者が中心だった。3か月にわたり、多い時には毎日数百人を受け入れた。

メディヴァの25年の評価をすると、着実に目標の実現に向かってきたといえる。一方でもっと大きな企業にできたかもしれないが、そうやって稼ぐよりも理想を優先した。これからどこを目指すのかは、大きな課題だろう。かなりゴールに近づいたのではないだろうか。

印象に残っているのは、先ほどの『ぽじえじ』や『イーク』だ。富士フイルムで取引先と話した時に、先方から「イークという、すごくいい健診機関がある」との話が出たこともある。それをやっているのは母の会社ですというと驚かれる。メディヴァはもっと注目されてもいいのではないか。

今後、これ以上のものが出てくるのか。既存事業を海外へ展開するという路線はあるが、まったく新しい分野をどう切り開くのか。大事なポイントは「いいね、社会の役に立っている」といわれるだけではなく、その先の事業としての発展性をどう考えるかだろう。

印象的な思い出として、小学校の低学年のころ「無人島に街をつくる」というコンセプトについて、みんなで議論しているのに立ち会ったことがある。ポストイットに考えを書いて貼り出し、意見を交わしていた。それぞれが事業案を持った100人規模の組織が一致団結しているという光景が幼いころの私にはとても印象深いものだった。

会社ができたころに、マンションの一室で段ボール箱のうえでPCを操作している人たちの姿も目に焼き付いている。そんな熱気がこれからも大切だろう。

今後は人材育成を含めて誰がリードするのか。その中でエネルギッシュに動く人が欠かせない。新しい会社を作り、定款を書き換えるぐらいの勢いで取り組んでほしい。

「疲れた。眠い、、」と言っている母だが、死ぬまで働くのではないか。自分が楽しいと思えて死ぬまで働けたらいいだろう。

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6人の方からのお話をどう聞かれただろうか。これまでの取材を続けてきた筆者の感想は、25年間の労苦は間違っていなかったし、これからも理想の医療を追求し続けることへの周囲の期待は大きい。手作り感を残しながら、日本の医療という巨大なインフラの立て直しに取り組む難しい挑戦が目の前に横たわっている。メディヴァやプラタナス、シーズ・ワンの皆さんがこれからも笑顔を忘れずに胸を張って進むことを心から期待したい。

最終回は大石さんに大いに語ってもらい、23年5月にスタートし、全50回を数えた連載を締めくくることとする。