2026/02/13/金
医療・ヘルスケア事業の現場から
【執筆】コンサルタント木内/【監修】代表取締役社長 大石佳能子
目次
人々の生活空間、働く空間、憩いの空間。あらゆる「場」を創造し、活性化させてきた空間創造のプロフェッショナル集団、株式会社乃村工藝社。
2025年12月、私たちは同社の社員の皆様に向け、「認知症」をテーマとした特別研修を実施しました。
「なぜ、人が集う空間を総合的にプロデュースする会社が認知症を?」
そう疑問に思われるかもしれません。一般的に認知症への対応といえば、医療機関や介護施設の領域だと捉えられがちだからです。
しかし、超高齢社会が成熟し、共生社会への移行が進む今、その境界線は溶け始めています。認知症のある方は、病院の中にだけいるのではありません。デパートで買い物をし、ホテルでくつろぎ、公園を散歩し、電車で移動しています。
つまり、私たちが普段利用している「人が集う空間」こそが、今、アップデートを求められているのです。
本レポートでは、空間づくりの最前線にいる皆様と共有した、2時間の熱気ある研修の模様をお伝えします。参加者の生の声とともに、社会課題を「空間の力」でどう解決できるか、そのヒントを紐解いていきます。
研修は座学からではなく、まず「感じる」ことからスタートしました。
「認知症の人の視点で世界を見る」— これを実現するために用いたのが、メディヴァと慶應義塾大学が共同開発したAR(拡張現実)技術です。
多くの参加者にとって、認知症は「物忘れをする病気」というイメージが強かったかもしれません。しかし、このARゴーグルを通して体験するのは、空間認識のズレ、視界の歪み、あるいは情報の把握しにくさによる混乱といった、当事者が見ている世界そのものです。
体験後のアンケートには、生々しい驚きが多数寄せられました。
「聞いて理解していたことと、体感はだいぶ違いました。言葉だけではわからない感覚を体験できて驚きました」
「距離感がつかめず、対象が近く感じて怖かった。足がすくむ思いでした」
「普段何気なく座っている椅子に座ることさえ、こんなに難しいことなんですね」
会場のあちこちから上がる、驚きと戸惑いの声。事実、参加者の満足度は100%(「大変満足した」「満足した」の合計)を記録しており、座学だけでは得られない「自分事化」のプロセスがいかに重要かが浮き彫りになりました。
この体験の最大の目的は、認知症を特別視するバイアスを外すことです。「理解できない行動をする人」ではなく、「環境側の不備によって困っている人」という視点への転換を促します。
認知症のある方が外出先で立ち止まったり、不安そうな顔をしていたりするのは、決してその人のせいだけではありません。空間のデザインが、彼らにとって「不親切」あるいは「解読困難」な状態になっているからかもしれないのです。
この気づきを得た瞬間、参加者の目の色は明らかに変わりました。「デザインの力で解決できることがあるはずだ」という、プロフェッショナルとしてのスイッチが入った瞬間でした。
体験による衝撃冷めやらぬ中、講義パートでは「認知症デザイン」の理論と、それを社会実装する意義についてお話ししました。

ここで私たちが特に強調したメッセージは、「外出こそがウェルビーイングの源泉である」ということです。
認知症になっても、人とのつながりや社会参加は欠かせません。しかし現実には、多くの当事者やご家族が、外出先での失敗や周囲の目を恐れ、家に閉じこもりがちになっています。これが孤立を生み、症状の進行を早めるという悪循環も指摘されています。
だからこそ、デザインの対象領域を拡張する必要があります。
これまでの「認知症対応」といえば、高齢者施設や病院の中だけの話でした。しかし、これからは違います。
迷わずにトイレに行けるショッピングモールや安心して支払いができるお店のカウンター、気軽に足を運べるミュージアムや劇場、そして誰もが使いやすいオフィススペース。さらには、焦らずに乗降できる駅のホームやバス停、落ち着いて過ごせる公園や図書館に至るまで。
商業施設から交通機関、公共空間へと、その対象領域は私たちの生活圏すべてに広がっているのです。
乃村工藝社の皆様が手がける、商業施設、ホテル、企業PR施設、オフィス、ミュージアム等。そのすべてが、認知症のある方にとっての「社会との接点」になり得ます。講義を受けた参加者からは、空間デザインのプロフェッショナルならではの鋭い気づきが寄せられました。
「最近、環境に配慮した設計として室内照度を落とす傾向がありますが、一般の感覚で判断することのリスクを実感しました」
このコメントは非常に示唆に富んでいます。省エネや雰囲気作りのための「暗さ」が、視空間認知に障害を持つ方にとっては「恐怖」や「混乱」の引き金になり得るのです。こうした微細なデザインの調整こそが、誰かの外出のハードルを下げる鍵となります。
「特別な施設」をつくるのではなく、「いつもの場所」を少し工夫する。それだけで、外出をあきらめていた誰かの背中を押すことができるのです。
研修の締めくくりは、実際のプロジェクトへの応用を想定したシナリオベースのワークショップです。
具体的な空間やシチュエーションを設定し、「認知症の方が直面する課題」と「デザインによる解決策」をグループに分かれて議論しました。

ここで多くの参加者が気づいた重要な視点があります。それは、「認知症デザインは、特別な人のための特別なデザインではない」ということです。
例えば、認知症の方にとって「わかりやすいサイン計画」や「落ち着ける照明計画」を考えてみます。それは結果として、日本語が読めない外国人観光客にとっても、小さな子供連れの親にとっても、あるいは仕事で疲れ切ったビジネスパーソンにとっても、直感的で使いやすく、居心地の良い空間になるはずです。
ある参加者は、自身が持っていた「思い込み」が崩れた瞬間をこう振り返っています。
「手すりだらけにするような、無骨なデザインにする必要があると思っていました。高級でデザイン性あふれる空間は、誰もが使える施設とは両立できないと思い込んでいたことに気づけて良かった」
また、別の参加者からは「バリアフリーとデザインの共存を目指していきたい」という力強い言葉も聞かれました。
その通りです。デザイン性や洗練さを犠牲にする必要はありません。むしろ、誰にとってもノイズが少なく、美しく、機能的な空間。それが「認知症フレンドリー」の正体です。
乃村工藝社の皆様からは、クリエイターならではの鋭いアイデアが次々と飛び出しました。「デザイン、施工のできるノムラならではの内容でした」という感想の通り、自社の強みを社会課題解決に直結させる視点を得ていただけたことは、今回の研修の大きな成果と言えるでしょう。
今回の研修を通じて改めて感じたのは、企業が社会課題に向き合うことのポジティブなエネルギーです。アンケートでは「認知症について理解が深まった(100%)」だけでなく、「今後のケアや関わり方に活用したい気づきがあった(100%)」という結果が出ており、全員がこのテーマを「自分事」として持ち帰ってくれたことが分かります。
「認知症」というテーマを、リスクマネジメントや福祉の文脈だけで捉えるのではなく、イノベーションの種として、あるいは新たな空間価値の創造として捉え直すこと。今回の乃村工藝社の皆様との取り組みは、まさにその第一歩です。
メディヴァでは、医療・介護の現場で培った専門知識を、まちづくりや企業活動の現場へとつなぐ架け橋となりたいと考えています。
「日々の生活の中で、常に『これってどうかな』と想像する癖を身につけていきたい」
参加者の一人が記したこの言葉こそ、インクルーシブな社会を作る原動力です。
「認知症になっても安心して暮らせるまち」は、誰にとっても「優しく、住みやすいまち」です。
そんな未来の景色を、製品やサービス開発、建物や空間のデザインを通じて、企業や自治体の皆様と共に共創していけることを楽しみにしています。
執筆
D.Kiuchi
東京都出身。京都大学農学部農林生物学科卒業。英国ロバート・ゴードン大学大学院理学療法科修士課程修了。英国スターリング大学認知症サービス開発センター(DSDC)アソシエイト。英国公認理学療法士として英国の国立医療機関 (NHS)を中心に、10年間働く。英国の病棟、外来、在宅、スポーツクラブなどの臨床現場を経験し、患者視点の医療、多職種連携、エビデンスに基づく医療の大切さを学ぶ。2014年6月に英国から帰国を機にメディヴァに参画。メディヴァ参画後、国内案件では在宅医療、外来、訪問看護の運営支援、看護小規模多機能、健診施設の開設支援、海外案件ではアジア、中東地域における健診施設開設支援や各種調査事業に関わる。また英国スターリング大学と協同し、認知症にやさしいデザインの医療機関、高齢者施設、公共施設、地域への導入支援にも関わっている。
監修
大石 佳能子
大阪大学法学部卒、ハーバード・ビジネス・スクールMBA、マッキンゼー・アンド・カンパニー(日本、米国)のパートナーを経て、メディヴァを設立。
医療法人社団プラタナス総事務長。江崎グリコ(株)、 (株)資生堂等の非常勤取締役。一般社団法人 Medical Excellence JAPAN副理事長。
規制改革推進会議委員(医療・介護・感染症対策ワーキング・グループ座長)、厚生労働省「これからの医業経営の在り方に関する検討会」委員等の各委員を歴任。