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2024/07/26/金

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれー 先駆者列伝31:「緩和ケア病床」からの苦渋の撤退

井の頭線東松原駅を降りてから10分足らずで、100人ほどが入居する4階建ての有料老人ホーム「アリア松原」が見えてくる。その一角にある松原アーバンクリニックは、2005年末ホームの新設にあわせて開院した。老人向けの施設が少なくない地域だ。

院長の梅田耕明医師はすでに70代に入ったが、60歳までメスを持ち続けた腕利きの外科医である。前の民間病院では92年にいち早く腹腔鏡手術を手掛けるなど新たな領域を拓くことにも積極的だった。そのなかで緩和ケアや終末期医療にどう関われるかも考え続け、松原アーバンに移る前から30人ほどの在宅患者を診ていた。術後の経過を診るため、退院した患者の居宅を訪ねたのがきっかけだった。

梅田院長の思いが込められた松原アーバンの20年ほどの挑戦の歩みを紹介したい。

玄関を入ると外来患者の待合スペースや受付があり、その先に診察室がある。どこの病院や診療所でも目にする光景だが、そこを抜けた先が違う。受付カウンターがある事務スペース、そしてトイレを備えた個室が廊下の両側にずらっと並んでいる。

この土地には大手銀行の寮があった。その跡地にベネッセが運営するホームが建てられ、あらかじめ病床を持つ医療スペースも設計されていた。まだまだ訪問診療が一般的でない時期である。在宅医療の優良な提供者は少なく、居宅や施設で重症者や看取り期を迎えた患者を診る体制は貧弱だった。ホームを運営するうえで、高齢者の急変に備えた入院設備を確保する意味は大きく、厳しい競合のなかで有床診療所の併設にはマーケティング上のメリットもあった。

プラタナスとメディヴァは、ベネッセから30ホームの訪問診療を任されるのと併せて有床診療所の運営を引き受けた。

梅田院長は14年間にわたり外科部長や院長を務めて来た民間病院を05年に辞めてプラタナスに加わり、松原アーバンを任された。病棟運営は決して楽でないが、病院長としての実績がある。緩和ケアやホスピスを中心に据えて在宅医療と連動させ、家族が休める時間を作るために患者を短期間受け入れるレスパイト入院も受け付けた。06年のがん対策基本法により、地域でのがん患者のケア問題が前面に出た時期でもあった。

まだまだ家での看取りは一般的でなかっただけに、いざという時の入院先を確保できていることは心強く、在宅医療を普及するうえでの支えという性格もあった。

もともと病棟のランニングコストは高い。そこで病室の半分は差額ベッドにして経費を賄った。一方、病室は自分の寝室やリビングのようなデザインを心がけた。ベッドに自ら寝てみて患者の視点を体験するなど看護師の意識は高かったそうだ。

患者さんと一緒に飲んだり、歌ったりという機会も設けた。型破りの「院内パブ」である。背景には、緩和ケアの目的はどのように残された時間を生きるかであり、そのためのサポートは欠かせないとの判断があった。

挙式を半年後に控える娘さんを招き、末期がんの母親のために病室で結婚式のリハーサルをしてもらったり、患者の愛犬を見せに散歩の途中で見舞いに寄る家族を迎え入れたり、枇杷の葉の温灸療法をしてみたいという患者の頼みでやらせたら煙でいぶされたり・・・。病棟で働いた看護師の皆さんの思い出話は尽きない。

がんセンター中央病院の緩和ケア担当者とのミーティングをきっかけに、希望する患者はこちらに送ってもらうこともあった。治療を始めるときには丁寧に話を聞く。終末期医療への橋渡しとして患者の思いを受け止め、がんセンターにも打ち返した。梅田院長は「病・診連携の大切さを認識した。どう自分らしく生きたいかが重要であり、在宅訪問診療において医者はコーディネータに徹する必要がある」と振り返る。

10年、梅田院長は世田谷区内の奥沢病院に移る。外科医の総仕上げとして、メスを握る機会を得るためだった。それまでにホスピスケア、外来、在宅医療とできることは何でもやっており、環境を整えてバトンタッチしたつもりだった。しかし、その後は院長が短期で交代するなど円滑には回らず、5年後に再登板することになる。

そのころ、厚労省が主導する医療政策の流れが変わっている。医療機関の機能分化が進められ、入院は病院へという流れになった。メディヴァの林佑樹事務長は「有床診療所は収入が少なくなりがち」として、構造赤字に陥りがちであることを指摘する。入院基本料に上積みもある病院と診療所との落差は大きく、緩和ケアでは5分の1になってしまう。人材配置の負担に違いはないだけに大きなハンデだ。

そこにコロナ禍が追い討ちをかけた。それまで在宅医療部門の収益を回して全体を支え、何とかトントンで来たものの、プラタナスの稼ぎ頭だったイークさえも20年4、5月は休診に追い込まれている。メディヴァ・プラタナスにとどまらず、日本全体の医療の先行きが見えない状況に陥った。こうなっては緩和ケアを支えてきた病床を続けられない。

13人ほどいた看護師にとっては病床という職場がなくなる厳しい現実を突きつけられたが、幸いなことに5人が訪問看護師などとして残ってくれた。コロナ禍のピークである20年に病棟は閉じられ、18あった病床は3つを残して返上している。

いま、外来と訪問診療・訪問看護の二本柱での運営になっている。冒頭に紹介したカウンターの付いた事務スペースはナースステーションからの転用だ。病室は会議室や事務室、相談室などに。

病床に入院していた患者は、梅田院長が訪問診療を担当している「アリア松原」に、在宅医療の一環として入居してもらって緩和ケアを続けた。返上していない3床については、将来的に復活させる可能性もあるが、現時点で用途や時期は全く決まっていない。

外来部門は地域に開かれた窓の役割も持つ。これまで培った松原アーバンの特色を生かした外来を充実されせることが重要となる。その一例が、梅田院長が水曜午後に開いている緩和ケア外来だ。

セカンドオピニオンの窓口というのが一般的だが、ここでは外来通院から住まいでの療養生活に移る上でのサポートが中心である。一日の枠は3人だけでその分じっくりと話が聞け、患者や家族の不安や疑問にこたえられる。大病院のように30分で1万円といった相談料はとらず、一般の診察料だけだ。

もう一つは地域連携の活動である。

緩和ケア病棟を体験した看護師には患者や家族とのつながりを大事にしてきた人が多い。入院患者であれば終日近くにいるが、外来は数十分で終わる。深い話はできないので、もう少し時間をとれたらいい、という思いがあった。外来の診察の後、看護師と話す機会を持つ患者もいた。こうしたやりとりを通じて今後の治療に役立てられる情報も得られる。

そこで、コロナ後にメディヴァの神野真実さんらが看護師と企画したのが、患者からの健康相談に乗る「おともナース」だ。パンフや案内カードを用意して、来院者や地域の人々に利用を呼び掛けている。足の爪切りがやりづらくなった、物忘れや体力が落ちといった話から、介護や治療にからむ質問まで、持ち込まれる話はさまざまだ。できることをやり、必要な助言している。

また近隣の小学校での花見や昔の世田谷の映像を見てのおしゃべり会などの企画も年に数回やっている。デイサービスに通うまでのことはないという高齢者が楽しみにしているそうだ。

医師、看護師、理学療法士、医療ソーシャルワーカー(MSW)、事務といった様々な職種が一つのテーマで議論する委員会活動も23年から再開した。そのなかから生まれたのが地域交流の「まつばらんど」だ。

有料老人ホームの建物の一角にあるために、ホームの関連施設のように映ってしまう。地域の人々に気軽に利用してもらうにはどうしたらいいか。そこで緩和ケア病棟時代を経験する井上友香里看護師が提案したのが、松原アーバンを知ってもらう催しだった。

目玉は無農薬野菜の即売会で、今は松原アーバンを離れて千葉・館山で看護師の傍ら有機農業をしている青木佳子さんが育てた野菜を売っている。あわせて飲み物を用意したお休み処を用意し、いざという時に必要になる福祉用具や介護用品の展示もして、医療スタッフが相談に乗る。これにより住民とクリニックとの距離を縮めようというのだ。23年7月から毎月開催し、常連も増えている。スタートから1年目にあたる今月25日の販売会には猛暑にもかかわらず近隣のお年寄りが訪れ、青木さんと雑談を交わしながら朝採り野菜を買っていた。

また連載の28回で紹介したLTH(Life Time Homes)の事業化、つまり高齢でも安心して住み続けられる居宅サービスの開発に向けた調査も松原アーバンと松原ナースケアステーションの連携で進められている。開発メンバーの一人、鮑柯含さんはナースケアステーションの事務長に就き、実際にセンサーを利用しての患者宅での実証実験を訪問看護師らと一緒に取り組む。昨年度は4件、今年度は数十件を目指すという。

施設内ではベッドセンサーやカメラセンサーなどは当たり前だが、効率性が高まるだけでなく介護者のケアに対する安心感の醸成にも役立つことがわかっている。「こうした機器を居宅療養でも実用化することで、患者や家族に施設以外の選択肢も示したい」と林事務長は話している。

緩和ケア病床を持っていた時代に培われた患者に向き合う姿勢は、今も様々な活動のなかに活かされている。ただ、広い入院スペースが残り、そこをどう活用するのか、あるいは移転するのかという大きな宿題を抱えている。有床診療所という意欲的な取り組みをひとまず終えたいま、あらたな挑戦が目の前に横たわっている。