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2023/10/10/火

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれ ー 先駆者列伝11:堤防決壊で病院水没。奇跡の復興

2015年9月10日、茨城県を流れる一級河川鬼怒川の堤防が常総市内で決壊し、一帯を泥水の海に変えた。東海地方に上陸した台風18号の影響で発生した線状降水帯が豪雨をもたらし、流れ込む水量が受け入れ能力を超えてしまったのだ。さらに鬼怒川につながる中小の河川や用水路からも水があふれだす。

水海道さくら病院とメディヴァにとって生き残りの戦いが始まった。

この年の3月、入院病棟93床、透析センター31床を備えたさくら病院の経営再建にメディヴァが乗り出している。1981年に19床の個人医院でスタートし、長らく地域の医療を支えてきたが、近年経営は思わしくなかった。

決壊当日。午後5時の段階では病院周辺は15センチの浸水だったのが、6時には地下の食堂と厨房に水が溜まりだし、1時間ほどで水没してしまった。医師や看護師、職員らは2階の入院患者を3階に移すことに追われた。この間、水圧でドアが開かなくなり閉じ込められそうになった栄養士さんをどうにか脱出させる事態も起きている。停電、断水に加え、電話も不通になり、患者90人、職員50人が孤立した。

翌11日。午前10時に自衛隊や消防が人工呼吸器の患者3人をボートで救出したのを皮切りに、重症者から順次ヘリコプターとボートで運び出し、被災を免れた周辺の病院に移送した。県内や周辺の都県から駆け付けた災害医療支援チーム(DMAT)の支援を受けながらの綱渡りの作業だった。12日も水没状態が続くなか、午後5時に全患者と職員の救助が完了する。

14日になってようやく水が引いたが、病院に戻ってきた人々はあまりの惨状に言葉を失った。後に廣井信院長はホームページに「病院の継続を諦めそうになった瞬間もあります」と率直な思いをつづっている。透析設備30台、レントゲン、CTなどの医療機器は壊滅状態で、水を吸って膨らんだ紙カルテの束は保管庫から出せない。汚水交じりの泥水だけに悪臭もひどく、衛生管理が最優先の病院にとっては致命傷といえる。唯一の救いは水が出た時点で、レセプト処理など医療事務をこなすサーバーや給与管理のPCを2階に運び上げ、無傷だったことだ。

この日、世田谷・用賀の本社から車で駆け付けた小松大介さんは大きな模造紙とポストイットを抱えて、3階の会議室に飛び込んだ。天災を嘆いていても始まらない。病院の幹部を招集し、対策会議を始めた。

最初に各部門から報告を受け全体の被害状況を把握するのは、お定まりの手順だが、その次が違っていた。全員にポストイットを渡し、これからの課題と心配事を自由に書き込んでもらい、それを模造紙に次々と貼っていく。

「避難した入院患者さんはどうしているだろう」「どこから手を付けたらいいのか」「どうやれば治療を続けられるのか」といった書き込みに交じって、「このまま病院がなくならないか」「雇用は大丈夫だろうか」という不安の声が寄せられた。

「口頭でのやり取りは非効率。みんなの前では言いづらい本音を集めないと前に進めない」というのが小松さんの判断だった。多くの仲間が同じような心配事を抱えていることを知ることで、ようやく再建へのスタート台に立てるというのだ。その上で今後の目標とスケジュールをそれぞれの担当者に発表してもらい、書き出した。かなりきついものの3か月で病院は復活できる。それが結論だった。

「奇跡の復興」。年内には病院の機能を全面的に復旧させる決意を込めて、廣井院長と相談した小松さんがホワイトボードに大書すると、どよめきの声が上がった。先行きへの不安に押しつぶされそうだったが、3か月先のゴールが設定されたことで全員の目指す方向が定まった。その後は朝夕の進捗会議で確認し合い、片付いた課題についてはポストイットを別な場所に貼り替えた。進み具合の「見える化」である。

まずは地域の人々が求めている外来診療の再開から。齋藤幸江看護部長(現副院長)らの奔走で大型テントを調達し、16日には仮設での外来診療が始まった。瓦礫が積み上げられた玄関の脇には、段ボールに手書きで「←外来左手30m」の案内が掲げられた。

来院者は16日3名、17日24名、18日18名とわずかだが、自宅の片付けに追われ体調を崩しがちの住民には心強い「野戦病院」の誕生である。28日には仮設テントから病院2階に移り、透析装置5台を確保して外来透析も再開された。さくら病院の奮闘ぶりは多くのメディアを通じて、全国に伝えられた。

9月21日からの三連休、他の職場にいるメディヴァ社員らが次々と現場に入り、全国から集まったボランティアの方たちの力も借りて、泥水の掻き出し、壊れた機材の搬出、清掃、消毒が進む。メディヴァ関係者だけで、延べ71人が駆け付けた。

地上から地下につながるスロープを使い、台車などで溜まっていた汚泥を運び出す力仕事は、臭気まみれ、泥だらけの過酷な作業だ。一方、ドロドロになった紙カルテを洗って乾かすという際限のない仕事もあった。経営企画室の山田智輝室長が忘れられないのは「みんなすごく楽しそうにやっていたこと」だ。ハイテンションだったのかもしれないが、病院スタッフやメディヴァの面々が力を合わせて目標に向かっていることの充足感もあったのではないか。

10月中旬には、見た目では被災前と変わらない待合室や診察室が戻ってきた。

被災から5日後には、地元の業者は手一杯になることを想定し、都内の建設会社に復旧工事を依頼。スピード優先で相見積もりなどは省き、直ちに着工してもらった。こうした迅速な判断が再開を後押ししたのも間違いない。レセプトのデータが入ったサーバーをいち早く2階に上げたことで、ある程度の患者情報が残っていたのも助かった。

入院再開まで3週間、全病棟が再開するまでには10週間。復興作業に手を付けてから83日目の12月6日にはお世話になった方々を招き、元の姿を取り戻した病院を披露する復興支援感謝デーが開催された。「奇跡の復興」を成し遂げ、めでたし、めでたしと言いたいところだが、舞台裏では綱渡りが続いていた。

被害総額はざっと8億2000万円。病院建物が2億円、付属設備1億円、機器類2億円などである。以前のような外来や入院患者の水準に戻るまでは診療報酬などの収入は限られる。設備資金、運転資金が足りないのだ。

幸いだったのは、以前から入っている火災保険の水害特約で3億5000万円の保険金がおりたことだ。9月末に保険が切れることになっており、ぎりぎりで間に合った。保険の更新は考えていたが、頭にあったのは地震や火災。洪水が翌月に起きていたら大変なことになっていた。県や国からは補助金1億5000万円が支給された。

さらに寄付が3000万円ちかくも集まった。これにはOBの発案で始めたクラウドファンディングの504万5000円が含まれる。「鬼怒川氾濫で水没した31年続く病院。みんなの力で奇跡の復興へ」を掲げてリハビリ室の治療機器や設備の復旧にあてるための支援を呼びかけたところ、目標の300万円を大きく上回る額が304人の方から寄せられた。取引先が支払期限を先延ばししてくれたこともあり、資金面の危機はどうにか乗り越え、再建に向けて動き出すことができた。

みんなの知恵と労力を集めて短期間での病院復活を成し遂げたが、少なからぬ反省点もあった。この体験はメディヴァにとって、計り知れない価値を生むことになる。

(続く)