2025/12/12/金
寄稿:白衣のバックパッカー放浪記

目次
シェンゲンエリアに戻ってきた。モンテネグロからクロアチアへ向かう国境では少し身構えていた。ここの陸路のイミグレーションは厳しそうという先入観があり、念のため書類も整えていた。しかし、実際には驚くほどあっさりと通過することができ、拍子抜けするほどだった。
今回の目的地は、アドリア海の真珠と呼ばれる街、ドブロヴニクである。世界的に有名な観光地だが、私が初めてその名前を知ったのは医療機関での新人自己紹介の場だった。ある若手医師が「世界で一番好きな場所はドブロヴニクです」と語っていた。当時の私は名前すら知らず、「どこそれ」という反応しかできなかったが、人から直接聞いたおすすめは記憶に残りやすく、それ以来ヨーロッパを旅するなら一度は訪れたい場所として頭の片隅に残っていた。
調べていくうちに、この街がどれほどの魅力を持つかがわかってきた。年間を通して多くの観光客が押し寄せ、最近では混雑を避けて近隣のブドヴァを選ぶ旅行者も増えているほどである。日本からはややアクセスが悪いものの、ドイツやイスタンブールで乗り継げば到達できる。世界では広く知られているのに、日本ではまだそれほど一般的ではない。そのギャップが逆に私の興味を強く刺激した。
バスを降り、旧市街の入口であるピレ門へ向かうと、そこには想像を超える人波が押し寄せていた。城壁都市という点ではブドヴァと共通しているが、規模も密度も比較にならないほど大きい。門の前だけでひしめき合う観光客の数に圧倒され、油断すると人混みに飲まれてしまいそうだった。アドリア海沿岸の街をいくつも見てきたがその中でもここは別格という印象を受けた。
ピレ門をくぐると、目の前には中世そのままの街並みが広がっていた。大理石で磨かれたメインストリートは光を反射し、まるで舞台の上を歩いているような気分になる。ブドヴァの素朴な石畳とは異なり、どこか品と格式を感じさせる道づくりである。さらに、この街はドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」のロケ地としても有名で、その関連グッズがあちこちで販売されている。歴史と現代の文化が共存する独特の雰囲気が漂っていた。
人混みを縫うようにして宿へ向かうと、中庭のある建物で、ヨーロピアンという言葉がしっくりくる落ち着いた雰囲気だった。到着時刻は13時頃で滞在日数は4日、この街を満喫できるだけの時間がしっかり残っていた。

ドブロヴニクと言っても広いが今回滞在する城塞は旧市街と呼ばれている。旧市街は海岸線から少し突き出た場所に位置し、北側をスルジ山、それ以外の方角を海が取り囲む防御力が高い立地にある。さらに街全体が壁で囲まれているため難攻不落だったに違いない。
ドブロヴニクは元々はラグーサ共和国という名称であった。ヴェネチア帝国とオスマン帝国という強国に挟まれながらも、巧みな外交で独立を保ち続けていたらしく、「どんなに黄金があっても、自由を売らない」というモットーがあったそうだ。貿易が盛んで、商業によって得た利益で作られていた木造の集落は石造りへと変わり、現在の形となっている。
壁の上は歩道になっていて、観光客は街とアドリア海を一望できるようになっていた。上から街を見ることで立体的に全体像を掴んでみようと試みた。写真ではなかなか伝わらないのだが、想像を超える街の大きさで一望することはなかなかに難しい。
普通に観光することに慣れがでてきていたこともあり、夕方にスルジ山へ登り、さらに上から街を眺めてみることにした。近くでみていた時には気づかなかったが、引きで観察すると城壁が円形になっていることが分かる。クリーム色の城壁は日が暮れてくるとライトアップされて白く光っていた。昔の人が山を超えてドブロヴニクにやってきた時にはもっと街の灯りが少なくて旧市街だけが光って見えたことだろう。それは確かにアドリア海で輝く真珠に見えた。

下山してから食事を取る。キプロスから地中海沿いに来て初めてメニューで牡蠣を見つけたので注文してみる。日本とは違った形をしている。身の部分が少ないけど味は確かに牡蠣だった。同じような海岸線に見えても、目に見えないところでプランクトンの種類とか、海の深さが違うとかそういうことがあるのだろう。何を食べれるかは何が獲れるかを反映していることが多いので、そういう変化に気が付くことができるのも食べる楽しみの1つだろう。

ブドヴァ編で少し書いたが、ドブロヴニクの医療制度は古くからしっかりしていたようだ。検疫制度はもちろん、内科と外科も明確に区別して雇用され、国外から招いた医師を国で雇用し給与を与え、法律で市民を無料で診療すること、公衆衛生の維持管理が義務付けられていた1)。
ドブロヴニクは中世、ヴェネツィアの影響を受けながらも独自の文化や医療を発展させてきた。その象徴が旧市街にあるマラ・ブラチャ薬局である。創業は1317年。現存する薬局としては世界で3番目に古いとされる。
薬局はフランシスコ会修道院の敷地内、旧市街の中心部に位置しており、教会や有名な噴水の真正面にある。門から入ってすぐ薬局に辿り着ける位置は、かつて体調を崩した旅人や巡礼者がすぐに薬を求められるよう考えられたものかもしれない。現代の救急外来がアクセスの良い場所に設置されるのと同じ合理性を感じる。
外観は少し博物館の受付のようにも見えるが、内部は撮影禁止で、静かな空気が流れている。一般的な薬も置かれているが品数は多くなく、何世紀も続いてきた薬局が必要なものだけを残してきたという重みが感じられる。
ここには門外不出の16種類のクリームがある。棚には並んでいないため、カウンターで希望を伝えると奥から調合済みのものを出してもらう仕組みである。私は旅の後でも使いやすい保湿クリームを選んだ。宿で試すと、軽く伸びるテクスチャーで花の香りがほんのりと漂った。中世から続く薬局で作られたクリームを肌に塗っていると思うと、少し特別な気分になった。

試しに現在のドブロヴニクの医療がどうなっているか気になって、ドミトリーの受付で「病院に行きたいんだけど?」と聞いてみる。帰ってきた答えは「保険ある?」。確かに私は市民じゃないけどお金がかかるようだった。今はそんなに甘くない。さらに「どこを怪我したのか」「クリニックと病院、どちらに行きたいのか」と心配した様子で質問された。確かに、通常は理由があって病院へ行くものだし、クロアチアのプライマリケアが独立したシステムであることも感じ取れた。
とりあえず教えてもらった公立病院を訪ねた。こんなに観光客がいるのに意外にも旧市街には眼科しかなく、総合病院は少し外れたラパッド地区にあるとのことだった。旧市街とは対照的に静かな住宅街で、物価も安い。丘の上にある病院へ続く坂道を、高齢者が杖をつきながら登っていく姿に、通院の大変さを思った。
調べてみるとこの病院は教育病院ではないらしい。しかし敷地内には講義室や疫学部門の看板があり、スクラブ姿の若者が校舎へ入っていく姿も見えた。制度上は教育病院でなくとも、看板には日本の一般病院では見慣れないHIV相談室、社会医学部門などもあったので医療現場として何らかの教育的役割を担っているのだろう。
国が違っても、病院の空気や学生の佇まいには不思議な共通点がある。その光景を見ながら、「医療はどこかで静かにつながっている」という感覚が胸に残った。そもそもイタリアにあるサレルノ医学校という場所が中世ヨーロッパ最古の医学部で、西洋医学の中心地、後の大学医学部の原型になった場所なので、ここでの教育が日本に伝わっているのかもしれない。
医療や街から時の流れを感じることできたドブロヴニク。聞いたこともなかった場所がおすすめしたい場所に変わった。旅路は医学が発展したイタリアに近づいていく。次にどんな新しいことが待っているのだろうか。もし誰かに何かをおすすめされたら、それを受け入れてみよう。自分1人ではいけない場所にきっと連れて行ってくれるだろうから。
次回は12月26日(金)ヴェネチア編となります。
【参考文献】
1)Alebić, T., & Marković, H. (n.d.). Development of Health Care in Dubrovnik from 14th to 16th Century-Specific Features of Ragusan Medicine First Mention of Medicine in Dubrovnik.
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