2025/11/28/金
寄稿:白衣のバックパッカー放浪記

目次
急に開けた山々から谷底に広がる街をみた。陸路で国境を越えてモンテネグロに入国して、8時間後にようやくブドヴァについた。港町の観光地、かつてブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが訪れた土地らしい。そもそも2人のファンでもなければ事前情報としてそれくらいしか持ち合わせていないこの場所では何を見れるのだろうか。
降りたバス停から宿まではかなり歩く。車はある程度止まってくれるので歩きにくくはない。だんだん港に近づいてくると道が波で覆われている。その場所を足を濡らしながら歩き、地図通りに宿のある場所らしきところを目指した。しかし宿が示されている場所は高い石造りの壁の中なのだ。
経路を示す青い点線は壁を越えるように表示されているが、到底越えて行くことはできない。壁沿いを見渡してみるけど入口はない。日が沈み辺りは暗くなり出していた。どうにか真っ暗らになる前にはたどり着きたいが「これ着かなくない?」というハラハラした気持ちがどこからともなくやってくる。
少し冷静になって考えてみると、ここは観光施設に見える。とすればどこかに入場ゲートがあるはずだ。そう思い、壁沿いに歩くと思惑通りに城壁の入口らしき場所を見つけた。入口近くにいたスタッフらしき人に「入場料はいくらですか」と聞くと、いやそんなものはかからないと言われる。おかしいなと思いながら門を潜ると、街がその中にあった。
どうやら城塞都市になっていて、海岸の岸壁に建てられた旧市街を城壁が取り囲んでいるようだ。中にはレストランやお土産屋、商店がいくつも並んでいる。確かにこれなら中にドミトリーがありそうだ。地図は間違っていなかったんだ―そう思い、探してみるとようやくドミトリーに到着できた。
フロントデスクしか納まらない1階の入り口でベルを鳴らすと、刺青たっぷりのどこ出身か分からないスタッフが降りてきた。チェックインを済ませて2階に上がると共有スペースには何人ものバックパッカーらしき人たちがいた。そしてみんな恐ろしくノリがいい。1人ひとりが自己紹介を行い、コミュニティーの中に入れてもらった。出身は様々でドイツとかアルゼンチンとか。スタッフのお兄ちゃんはイスラエル出身だった。
話を聞いているとどうやらリゾートバイトみたいな感じで、各国から来た人たちが、このドミトリーに住み込みで働き、シフトの空き時間で観光をしたり、ビーチでのんびりするらしい。日本で住み込みバイトをしていても国籍の違う人が集まることは少ない。バイトで多様な国籍の人と繋がれることは日本にはないことのひとつかもしれないなと少し羨ましさを感じた。
ただたくさんの国を回る。そして地中海沿いに移動する。この二つを重ねた時に浮かび上がったブドヴァ。ベッドに荷物を下すその時までは来なくてもいいかもと思っていたが、街の魅力が徐々に分かってくると来ていい街、また来たい街に変わっていた。

街を取り囲む石造りの壁は、ヴェネツィア支配期に整えられたものらしく、イタリア本土に行ったことがない自分でも、その色合いや積み方からどことなくイタリアらしさを感じた。旧市街の道は細く、車が通れる幅ではない。その狭さが人々が手作業で生きていた頃の面影を残していた。ブドヴァは東欧の人たちにとって手頃なアドリア海リゾートで、近年はクロアチアの混雑を避けた西欧の旅行者にも穴場として知られつつあるらしい。
調べてみると、この小さな旧市街にはかつて6つの門があったらしいが、現在よく使われているのは私がくぐった門と、港へ抜ける門の2つだけだ。なぜこれほど高い壁と限られた門が必要だったのか。もちろん軍事的な理由は大きい。アドリア海沿岸の都市は外敵からの防衛を常に意識しており、ブドヴァも例外ではない。しかしこの城壁はある病気の感染と関わりがあるかもしれないものだった。
それは14世紀のペスト、いわゆる黒死病だ。地中海の港を起点に船とともに広がったこの病気は東地中海からシチリアへ、そしてイタリアの主要都市へ感染した。当時のヨーロッパの人口の1/3から2/3を失ったとも言われる感染症で、当時の薬はまったく無力だった。唯一の防御策は感染の疑いがある人や物を街の内側へ入れないことだった。
そのため港町では通行を制限し、門の出入りを管理し、必要に応じて武装した警備によって見知らぬ旅人や商人の流入を止めるなど、都市が境界を閉じる行動をとった。こうした衛生的な警戒線を張る仕組みの一環として発展したのが検疫(quarantine)である1)。
quarantine という単語はイタリア語の quaranta giorni(40日間)に由来し、感染疑いのある船員や貨物を40日間隔離する制度からきている。1377年には現在のクロアチア・ドブロヴニクで最初の恒久的検疫が導入され、ヴェネツィアやジェノヴァにもラザレットと呼ばれる検疫所が設けられた。港の入口には監視が置かれ、船長は健康状態を報告し、疑わしい場合には船ごと隔離されたらしい1)。
ブドヴァの城壁そのものが検疫目的で設計されたと断定できる史料はなさそうだった。しかし、同じアドリア海にある港湾都市が、城壁と門を「境界管理の道具」として活用し、外部からの疫病流入を防ごうとしていたかもと思うと、この街の構造も違った意味を帯びて見えてきた。
整然とした高い壁と、限られた数の出入口は軍事だけでなく、外からの脅威を選別するという役割を果たしていたのだろう。この街に来た当初、入口を探すのに少し苦労したのも、街という空間が元来簡単には入れないようにできていることの名残だと思うと妙に納得がいった。
翌日、ドミトリーの仲間たちとモグレンビーチへ出かけ、バスタオルを広げて旅の理由や次の行き先を取りとめもなく話しながら海に入ったり戻ったりして過ごした。かつては人の行き来を制限するために閉ざされた門が、今では世界中から来た旅人を迎え入れる入口になっている。そのことに気づくと、アドリア海の波の音が少しだけ柔らかく聞こえた。

本当にたまたまだが、滞在期間中にブドヴァの街をあげて行う魚祭りがあった。特典は誰でも焼き魚1匹とパンを無料で食べられるというもの。興味本位もあるし、ご飯代が浮くのも悪くない。そんな軽い気持ちで旧市街へ向かった。ブドヴァの旧市街は狭く、広場も一つだけなので迷う余地がない。会場に着くと4つの焼き場があり、それぞれに長蛇の列ができている。
食べ終わった人に聞くと「2時間待った」とのこと。さすがにそこまでして食べる必要があるのかと思いながらも、流されるように並ぶことにした。おそらくブドヴァ魚祭りでサバらしき魚に並んだ最初の日本人家庭医かもしれない。ところが列は想像以上に遅く、焼き場まで50mもないのにほとんど動かない。飲み物を持ってこなかったことを後悔しながら、ただただ立ち続ける。
ようやく焼き場の前まで来て、あと2組というところで、列を仕切るおじちゃんが突然腕をクロスさせて入場を止めた。「どういうこと?」と思ったが、どうやら魚が足りないらしい。おじちゃんは「向こうの列に行け」と皆を追いやろうとする。2時間待ってそれはない。しかもタイミング悪く、発泡スチロールの巨大ボックスを抱えた男が到着し、中には大量の魚がぎっしり入っているのに、門番のおじちゃんは全く気づかない。
皆で「魚が来たぞ!」とアピールしても聞く耳を持たず、14世紀から門番の家系なのかもしれないが門番は門番の仕事に固執しているように見えた。そのとき、前にいたブロンドのおばちゃんが、おじちゃんの耳元で何かを妖艶に囁き、そのままスルッとゲートを通過してしまった。おばちゃんは振り返って私にウィンクした(ように見えた)。
そこで私も試しに、おじちゃんに向かって「あなたはカッコいいですね」と軽く持ち上げてみた。すると驚くほど簡単に通され、あっけなく関所を突破した。こうしてようやく手に入れた焼きたてのサバのような魚は、立ちながら手をベタベタにして食べるにしても、2時間待っただけあって素直に美味しい。旅の味は、待ち時間と交渉術で決まるのかもしれない。
ビールがあれば最高だが、ビールにもまた長い列ができているようなので今日は諦めた。魚だけで十分満足した気分になりながら宿へ戻る。次の目的地もまた城壁に囲まれた街らしい。事前準備は何もしていない。でもきっと大丈夫だろう。ブドヴァで門の開け方を学んだから。

次回は12月12日(金)、ドブロヴニク編です。
【参考文献】
1)Tognotti, E. (2013). Lessons from the History of Quarantine, from Plague to Influenza A. Emerging Infectious Diseases, 19(2), 254. https://doi.org/10.3201/EID1902.120312
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