2024/09/13/金
寄稿:白衣のバックパッカー放浪記
目次
“ヴィエンチャン”とGoogleで調べると「何もない首都」という言葉を目にする。首都の人口は98万9000人1)。この数字は2024年7月にあった東京都知事選の投票数を考えても少ない感じがする。ドミトリーで「ヴィエンチャンに行くんだ」というと「何しに?行くこと自体をオススメしないわ」と言われた。みんな「首都だから、そうは言っても何かあるんじゃないか」とか「逆に見たいよね」という気持ちで訪れるのではないかと思う。私は物価が安いし、3泊4日での移動がルーティンになっていたからルアンプラバーンの次はヴィエンチャンに行ってみようとなんとなく考えた。移動は生まれて初めてのプロペラ機でラオスの山々の景色を見ながら北から南へ、まるでメコン川を追いかけるようにして目的地まで向かった。
空港からドミトリーまではタクシーで移動し、チェックインを済ませる。正直言ってかなり綺麗な宿だ。与えられたロッカーに自分の荷物を下ろすとなぜか突然、洗濯欲が沸いてきた。綺麗な部屋だったからか自分の服も綺麗にしたくなったのかもしれない。そこでGoogle mapでコインランドリーを探して歩いてみた。建物が絶妙に離れていて、程悪く歩かなくてはならなかった。しかも日曜日のためかどこも閉まっていて結局洗濯はできなかった。
次はお金を下ろそうとATMに行ったが、5ヶ所全てで引き出せなかった。所持金が日本円で5000円程度だったので、ここぞとばかりに何かあった時のための10000円をラオスキップに変えた。洗濯やキャッシングが生命線に近い行為である。自分にとって重要なことができなかったことでなんだか自分がとても無力な存在のような気がしてきて、街から色彩が取れてグレースケールとして目に映ってしまっていた。
それでも何かあるだろうと街を歩いているとメコン川に人が集まっている。野次馬として私も川の方へ見に行くと中洲で火事が起きていた。消防車のホースの長さが足りていないから、どうやっても火元までは水が届かない様子だった。中洲の野原はどんどん焼けて、火事は夕方になっても終わらず、草が燃えてできた灰がひらひらと風に乗って街に降り注いだ。ヴィエンチャンまで見たものが火事だけだったら味気がなさすぎる。きっと何かはあるはずなんだ。そう思って今度はナイトマーケットに向かった。
今これを読んでいる方ならお気づきだろうが、ナイトマーケットにも感動的な何かがある訳ではなかった。文章的にそういう文脈だ。ルアンプラバーンと比べると全てから出てくる二番煎じ感が否めない。可愛らしい遊園地がスポっと川沿いにあるだけで、こんなものかなという感じだった。川の向こうに見えるタイの照明の方がどうしても明るく見えてしまう。もちろん私は到着して間もないし、表面を撫でているだけにすぎないので何かはあるのかもしれないが、これってのが見つからない。松井さんが言っていたラープというラオス料理を探し求めてレストランを渡り歩くも出会うことができなかった。自分でも失礼なことを書いている感覚があるのだが、追い討ちをかけてさらに書くならば「言い表せない何かが欠けている」のだ。期待するとよくない。では私は首都に何を期待していたのだろうか?
ナイトマーケットの遊園地、奥に見える灯がタイ
人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かをもとめる。
國分功一郎は暇と退屈の倫理学の中で上記のように記載している。それほどまでに退屈は人間にとってはしんどいことらしい。自分の中の首都像はそうは言ってもやはり色んなものがあって退屈しないことにあると思う。自分のバックグラウンドとして東京を思い浮かべてみても、必要なものは揃っていて、もっと言えば余剰にそれがあるとさえ言えるかもしれない。首都というだけでそういうものを知らず識らずに心に浮かべていたのだ。でも都内にいるとそれはそれで興奮が少なくなっていき、また退屈してしまう。どこに自分の中でちょうどいいバランスがあるのだろうか。札幌か京都か神戸か福岡か。今度はその辺りになって、また長くいれば退屈してしまうのだろう。
退屈が何かは國分先生に説明してもらうとして、もし日本の人口が減って行ったら、いささか飛躍はしているが東京あるいは中核都市は閑散としていくのだろうか。多分私にはそういった街々の娯楽レベルが下がっていくことに耐えられる精神はない。そう考えると急に人口減少に対して当事者意識が沸く。今まで回っていた場所がongoingに発展している場所が多かったこともあって、そっとインドシナ半島に佇むヴィエンチャンからは、ある意味で進んだ世界を見て取ることができた。断っておくが決してディスっている訳ではない。街自体の魅力に気がつけていないのは他ならぬ私だ。
ヴィエンチャンのゴールデンテンプル
私はヴィエンチャンの宿泊日数を縮めて旅立つことにした。やはり現金が下ろせないことは厳しい(限度額に達している訳ではないです)。宿の人に相談すると寝台列車でバンコクまで行けるとのことだった。しかも宿に迎えが来て駅まで連れて行っててくれるらしい。陸路でマカオから中国に入れなかったリベンジもできそうだし、これは良いんじゃないかということで予約をしてもらった。
当日予定時刻に宿の前までバンがやってきた。中にはインド、イタリア、タイからの旅行者が乗っていた。スタッフであろう人から茶色のビニールテープを渡され、それを胸につけろとのことだった。胸につけろと言ったって、汗で全くくっつかないのでとりあえず握り締めていた。車内ではフランチェスカというイタリア人インスタグラマーと席が隣になった。どうやら最近まで佐賀にいたらしい。日本の話をしながら道中を進むとターナレーン国境検問所で降ろされた。
検問所に降りるとスタッフは「あっちにいけ」と言いながら手で私たちを追いやった。「ちょっと待って、まだ電車のチケットもらってないけど?」と言ったが、いいから向こういけという感じだ。周りの人に確認したらタイのノーンカーイ駅から電車に乗るのは私だけのようで、しかも他の人は電子チケットを携帯に入れていた。あれ、また越境未遂か?という気持ちで心が満たされる。フランチェスカが「大丈夫、私が約束する。知らんけど」と関西人かとツッコミたくなる、それでいて力強い目で私を励ました。
よく分からないままラオスの国境を出てバスでタイラオス友好橋という橋を通ってノーンカーイ国境管理事務所まで行く。これマジで大丈夫なのかなという感じだ。バスを下ろされて、またあっちいけと言われて言われるがままに進み、ベルトコンベアに乗った荷物のように流れて行って、気づいたらタイの入国スタンプがパスポートに押されていた。入国するとなんだかおばちゃんが呼んでいる。茶色のビニールテープを見せると、名前を確認されて電車のチケットをもらうことができた。このテープ、失くさなくて良かったという安堵感とすごい斬新な管理だなと感心してしまう。フランチェスカにありがとうと伝えて、別々のバスに乗り駅まで向かった。
無事にノーンカーイ駅まで辿り着くことができた。とりあえず一息つくも電車の時間までは2時間40分あった。辺りを見渡すと野良犬がいる駅だった。もちろん蚊もいる。観光地や都市部だと危険のないマラリアがいそうな田舎駅だったので少し神経を張って待たなくてはならなかったが、それもご愛嬌だろう。のんびりバンコク行きの深夜特急をプラットホームにあるベンチで待った。
電車を待ちながら撮影したノンカーイの駅
34年間、島国育ちだったからか陸路で国境を超えた時に人生でまた新しい経験をしたなという気持ちがあった。そんなことで?と思うかもしれないけど、ある種の自信みたいなものを持つことができた。学生の時にこう言うこと既にやっていた人もいるんだよなぁとかも思った。
喉元過ぎれば熱さ忘れると言うけれど、何かを越えたり、変えたり、挑戦する前には足がすくんだりしてしまうこともある。一度越えてしまうと次からはなんてことはなくなったりするから諺って残るんだろうなと。実際この後陸路で国境を越える時には何のドキドキ感もなかったから、最初の一回って私にとっては重要で、ここで感じた熱さは胸の裏くらいには残っていて、この日のことは忘れないんだろうなと思う。
もしヴィエンチャンに来なかったら、素直に飛行機でバンコクに戻っていただろう。何もないから行かないと思わずに、とりあえず行ってみることに意味があったのだと振り返ってみてそう思う。だからもし何もなさそうだなと思うことがあっても少し足を踏み入れてみるといいのかもしれない。そこ自体には何もなくても、そこから生まれることがあるかもしれないから。
更新は毎月第2、4(金)12時、次回は9月27日、内容はソウル編となります。次回もお楽しみに
執筆:溝江 篤
編集:神野真実、半澤仁美
【参考文献】
1)日本貿易振興機構. (2024, June 5). 概況・基本統計 | ラオス – アジア – 国・地域別に見る – ジェトロ. https://www.jetro.go.jp/world/asia/la/basic_01.html
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