現場レポート

2024/06/14/金

寄稿:白衣のバックパッカー放浪記

白衣のバックパッカー放浪記 vol.9/クアラルンプール編②

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https://mediva.co.jp/report/backpacker/14164/

多分、受け入れられていない。

人は死に際に走馬燈を見るらしい。英語では「Flash Back」と訳される。過去の記憶が映像として見えるらしい。「らしい」というのはあくまで比喩表現であるからだ。私は死者と対話をしたことがないから、この現象が確かかどうか、実在するかも分からない。

頭痛がある閾値を超えてしまって、痛みではなく時間をスローにすることで体に危険を知覚させていた。そのとき私の頭の中では過去の再生ではなく、現実と予測される未来のことを想像していた。「麻痺はなさそう。首は痛くないし曲がりそうかな。でもそもそも急に痛くなったんだった。」頭の中で出血していなさそうな理由を探しながら、出血だとしたらどのような経過を辿るかを同時に考えていた。「救急車に乗って、病院に行って、そこで死亡確認されて、飛行機か何かで日本へ運ばれて…一体どうやって、誰が飛行機を手配するんだろうか。銀行の番号とか家の解約とか。まぁでも誰かがやるんだろうな。」

とりあえず見つけてもらえるように共有スペースに向かう。周囲の人が大丈夫かと私に尋ねる。私は「I’m not sure.(分からん)」と返事をする。咳と頭痛は淀みなく続いている。死んでも後悔はないか自問自答してみる。

「今死んでも受け入れることはできるし、死んでも大丈夫」という気持ちと

「せめてペナンには行かせて欲しい」という欲が交錯していた。

人生を後悔しないように出た旅で、死ぬかもしれないというこの状況を私は多分受け入れ切れてはいない。走馬燈も駆け出したりはしていなかった。

そうこうしているとドミトリーのマネジャーが悪意のない優しい表情でアセトアミノフェンを持ってきた。正直そんなの効く感じの痛みではないと思いながら現地の病は現地の薬かなと思い飲んでみるとこれが嘘のように効いた。徐々に咳が治り、痛みは取れていった。調べてみるとコード式蚊取りに含まれるピレトリンという物質が喘息に似た咳を起こすらしい1)。頭部CTを撮影した訳ではないから一体あれが何だったのかは未だに分からない。しかし放浪先で、しかもペナンにいくための「ついで」に立ち寄ったKLでこんな気持ちになるなんて思いもしなかった。少し落ち着いても、何が起きたのか受け入れられていなかった。

異教の国で

体調を戻すためにも少し街を歩くことにした。ベッドで休んでいた方がいいかもしれないけれど、動かずにはいられなかった。生きている間に動いておこうと思っていたのかもしれない。ブキッ・ビンタンの街を歩いているとスカーフで顔を覆っている女性をみることができる。ヒシャブとかニカブとか覆い方で名称が違うみたいだが、覆い方の違いでどのような意味としての違いが出るかは分からなかった。思えば私は今までイスラム圏と呼ばれる地域に行ったことがなかった。この土地では私が多分レアケースであって、周りの人たちがメジャーな存在なのだ。レストランに入っても酒が置いてある店は少ない。イスラムのことを本当に知らないんだなと気づいた私は、思い付きでプトラジャヤという地区のモスクに向かった。

プトラジャヤは観光名所の一つでピンク色をしたプトラモスクと官公庁がある。モスクに着く前の橋で、タクシー運転手は私のことを降ろした。「ここが一番綺麗に写真を取れる場所だから、写真を撮ってやる。」実にチップでも要求されそうな提案だが、確かに綺麗に、ウェブサイトでよく見たモスクが人工的に作られた水辺に浮かんでいた。私はそこで何枚か写真を撮ってから、モスクに案内された。初めてモスクという場所に立ち入る。なんとなくイスラムの人しか入っちゃいけないような感じがする場所だった。しかし実際に行ってみるとやはり観光名所になっていた。入口の門で手荷物検査と入場料を支払って中に入ると、広場の後ろに比較的新しそうなピンク色の光景が目の間に広がった。女性はやはりスカーフを巻かなくてはならないらしく、入口で布を渡されていた。男性も短パンはダメそうな雰囲気だったが、奇跡的にジーパンを履いていたので全くトラブルなく入ることができた。

見た目からしてもっと厳かな場所かと思ったが、雰囲気としては清水寺に似たようなー観光客で溢れ帰る寺社仏閣という意味で似ているー場所であった。モスクの内部に入る前に靴を脱ぐ必要があった。私は靴棚もなく、無造作に並べられた靴達の中に自分のものを付け加えた。「靴棚がないと自分の靴かどうか分からなくなってしまうのではないか」と思うようになったのは一体いつからなのだろう。自分の中の日本文化的な側面を感じずにはいられなかった。

中に入るとモスクのドームに細かい大理石らしきもので装飾された対称性がある模様が目の前に広がった。もっと近くでみたいなと思い、さらにドームの方へ近づき、見上げてみる。こんなに礼儀正しく、品のある場所もないのではないかという建物だった。確かに何かを信じてみたくなる美しさがそこにはあった。

プトラモスクのドーム内部

モスク内部にはアラーの業績や思想について書かれた掲示物が並べてあった。読んでいると宇宙がどうやって成り立っているか、山がどうやってできるかなど自然科学に対してアラーがどうやって解釈していたか、それが現代科学で実際にその通りだと証明されたことが記載されていた。モスクに行ったからと言って何かが理解できる訳ではなかった。無理に読み取ることも違うと思う。そもそもそこに意味があるかどうかさえ誰にも分からないのだ。ただ、私が生きてきたコンテクストとは違うコンテクストの中で生きている人がいるということを教えてくれる場所だった。朝には死にかけたにもかかわらず、生きてここで観光ができていることだけが私にとって重要な事項であった。

宿に戻ると日本人らしい人を見かけた。話かけるか迷う。異教の国に来てまで日本人と話したくないと思っているのではないかと思ってしまうからだ。明日の朝もここに居たら話かけてみようと思い、少し食事を摂ってからその日は就寝した。性懲りもなく、蚊除けを充分に使用して。

ペナンに向けて

翌朝広間にいくと昨日の東洋人がソファーに座っていた。私は「Do you speak Japanese?」と聞くと爽やかな笑顔で「はい」と返事をした。彼は30代男性でリモートワークをしながら海外を回っているという。羨ましい限りだ。コロナ禍でリモートワークが広がったためか、以前にもまして海外で暮らしやすい状況が整ったような気がする。仕事の中で機能性や本質的なものだけが残っていったような感じがする。ドメステックで内部にいなくてはならないような仕事でない限り、外に出て行けるように、あるいは自宅の中から出なくてよくなったのだ。アインシュタインの旅日記なんかを読んでいると、アジアからコペンハーゲンにいるニールス・ボーアとかに手紙を送っていた。なんと便利な時代になったのだろう。戦前に人力で海外へ手紙を送っていたかを考えると途方もない。彼は今日から違う宿に泊まるらしく移動するらしい。そこで私たちは夕食を一緒に食べる約束をして、それからそれぞれの時間を過ごすことにした。

ビブグルマンに載っているリーズナブルなレストランを予約して、私たちは日没くらいにレストランで食事をした。食べ慣れないマレー料理を食べながら、慣れている言語でお互いの暮らしやオススメの国などを共有した。マレー料理店にはお酒がなかったので、スポーツバーに移動して私たちは冷えたビールを飲んだ。会話しながら二人ともペトロナスツインタワーを見ていないということが分かり、私たちはツインタワーへ向かい、そこでお互いの写真を撮った。

夜のペトロナスツインタワー

たわいもない様子だが、なんだかとても気が合う人だった。話をしてみるまでは分からないものだ。彼が「次はどこに行くんですか?」と私に聞く。私は「ペナンです。」と答える。

そうだ、私はペナンに行きたくてマレーシアに来たのだ。世界遺産の街、貿易都市ペナンに。ドミトリーであった人は皆、「ペナンは飯がうまいぞ」と口を揃えていうので、期待が膨らむ。彼と道端で別れて、私はKLの道を歩いて宿に帰った。少し湿った、暑い夜の中を。

更新は毎月第2、4(金)12時、次回は6月28日になります。

【参考文献】

  1. Bond, C.; Buhl, K.; Stone, D. 2014. Pyrethrins General Fact Sheet; National Pesticide Information Center, Oregon State University Extension Services. http://npic.orst.edu/factsheets/pyrethrins.html.

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