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人事ブログ

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2023/06/12/月

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれ ー 先駆者列伝3:地域の家庭医に。患者参加型の医療の始まり

20世紀最後の年、2000年6月にメディヴァが設立され、12月4日には用賀アーバンクリニックが開業した。

後に医療法人社団プラタナスの中核となる用賀アーバンが医療サービスを提供し、その経営はメディヴァが支える。要は理想の医療を目指した面々が技術や知恵を持ち寄り、活動する場が確立したということだ。何もなかった無人島に、人々が寄り添える小さな家が建ち、街づくりの第一歩を踏み出したことになる。

渋谷まで12分、落ち着いた住宅街も小さなオフィス街もある用賀を挑戦の地に選び、名称に都会を意味する「アーバン」を入れるなど、なかなかスマートな戦略と映るだろうが、舞台裏はどうもそうではなかった。

用賀に選んだのは「たまたま物件があったから」(大石さん)で、無謀にも大小さまざまな医療機関がひしめく激戦地に飛び込んでしまった。地元の医師会や保健所もなかなか手強かった。

まず名前で苦労させられた。住民の家庭医になる決意を込めて「ファミリー」を入れようとしたが、保健所が認めてくれない。当時は医療機関がつけることのできる名称には規制があり、小さな範囲の地域名、医師名あるいは入居した建物名だけ、ということを知る。幸い入居先が「アーバンサイドテラス」だったことから、「用賀アーバンサイドテラスだと長過ぎるので、用賀アーバンならいかがでしょう」とビルの名前ということで押し切った。その後、桜新町や松原などに展開するが、その時は「本院の名前を継いだ」ということで問題なかった。何事につけ、最初は思いもよらない横やりが入るものだ。

開院前の内覧会はなかなか好評だった。来場者はメディヴァやプラタナスの面々の心意気に打たれ、激励を惜しまない。若々しいメンバーが医療の理想を熱く語り、温かみのある院内を紹介してくれたのを筆者も記憶している。コンセプトは三つ。家庭医、快適さ+利便性、患者参加型医療。いずれも21世紀のクリニック像ということになる。

ゆったりとした待合室はカラフルなリビングルーム調で、靴のまま診療を受けられる。医師は白衣でなくカジュアルな服装で、気楽に相談できる雰囲気を保つように心がけた。ソファーやテーブルなどは家具屋で買いそろえ、文具はホームセンターで。その結果、医療専門の設備や備品に比べて格段に安上がりになる効用もあった。「インテリアは白が基調、医師は白衣、患者さんは誰が使ったのか分からないスリッパに履き替え、狭い待合室でじっと待つ」、そんな医療界の常識はあっさりと捨てた。

とはいえ、肝心の患者さんがやってこない。初日こそ知り合いも含めて47人が受診したが、翌日は17人だけ。かかりつけ医を持っている住民は、新規に開院したクリニックにそう簡単に乗り換えない。型破りのクリニックを前に地域の高齢者には戸惑いもあったことだろう。暇を持て余し診察台に横になっていたこともあると野間口聡院長は振り返る。パーフェクトホームドクターを目指し、家族全員が掛かりやすいクリニックをつくろうと立派な理想を掲げても、患者がいないのでは話にならない。しかもお金が回らなくなる。

用賀駅の改札前でビラを撒いたこともあった。事務スタッフはもちろん医師も駆り出され、大石さんは白衣姿。すると医師会から呼び出しがあり、「広告はいかがなものか」と小言をいわれた。そこで思いついたのが薬の宅配だ。来院者が少なくて時間を持て余しているうえ、開業間もないために調剤の手際も悪い。ならばこちらから出前して、ついでに患者さんとのコミュニケーションも深めようという苦肉の策だ。薬の宅配はコロナの時に再開した。

そんな苦境のなかでも、用賀アーバンの魅力の一つであるカルテの開示には最初から取り組んだ。「治療は医師と患者の共同作業。そのためには、まず患者が自分の病状を知って、医療に自ら参加することが必要」との信念からだ。

カルテ開示はクリニックの理念を支える大きな柱ということになる。普及し始めていた電子カルテを使っていたので、簡単に印刷して渡すことができた。その後、インターネットを通して患者はいつでもどこでも自分のカルテが閲覧できるようになる。治療の利便性を確保するために、出勤前や昼休み、会社帰りでも寄ってもらえるように診察時間は昼休みなしの午前8時から午後8時までとした。

こうした試みは旧来の医療に厳しい目を向けているメディアにとって、飛びつきたくなる話題だ。日経新聞が11月14日付朝刊で「メディヴァ 東急電鉄、診療所の開業支援」、朝日新聞は翌年1月31日付で「ネットで診療所深化、カルテも開示 東京・世田谷区に先月開業」といった具合で大所の新聞や放送が次々と取り上げてくれた。

マスコミ報道の効果もあって知名度は上がり、それとともに患者数はじりじりと増えだした。当初は1日20人のペースで12月9日にカルテ数が100枚に達したが、翌年3月には1000枚に。2003年7月には1万枚に跳ね上がった。清潔な院内、親切な対応などが口コミで広がっていったのも大きかったようだ。

では経営は楽になったかというと、そう簡単ではない。理想の先走りは高コスト体質をもたらせていた。当時からいる関係者が口をそろえて振り返るのは「最初の1、2年の苦労」だ。当初は医師3.5人体制で、看護師は4人、薬剤師2人、事務スタッフが3人。60坪あるので家賃も月に100万円かかり、毎日150人から200人の来院者がないと合わない計算だった。毎月200万円から300万円足りない時期が続いたという。

損失の穴は関係者のアルバイト報酬で埋めるしかない。取締役の小松大介さんはタクシー会社、大石さんはアパレル会社の経営コンサルで収入を得た。マッキンゼー時代に培った人脈が生き、昔の仲間が口利きをしてくれた。運転資金を借り入れたこともあった。

ただ、スタッフ体制は患者数からいうと重たすぎ、配置を整理した。使わない利用機器の電源を落とすなど細かいコスト削減策に知恵を絞った。患者の増加に合わせた効率的な対応ができるようになり、黒字に転換することに成功するまでに3年を要した。リストラの旗振り役の一人岩崎克治さんは「まさに石の上にも3年だった」と語る。

我慢の時期にも将来の芽は育てないとならない。ありがたかったのは、経産省による「先進的IT技術を活用した地域医療ネットワーク委託事業」に採択され、01年の事業費として8000万円の補助金を手に入れたことだ。医療機関としての実績の乏しさを、未来型医療のコンセプトでカバーした。この資金でインターネットを通したカルテ開示システム(オープンカルテ)、病院診療所の情報・画像連携システム(メディメール)、カルテデータの検索・分析エンジンの3本柱に取り組んだ。DX時代の現在までメディヴァの根幹にあるIT戦略の原型がつくられた。

用賀アーバンは設立から20年余りが経ち、自らのホームページに「老舗のクリニック」と謳うまでになった。しかし、医療の環境は大きく変わっている。たとえば、小児科の専門医院が増えており、用賀アーバンの診療は成人が中心になっている。医療の世界を切り拓いた頃は尖がった存在だったが、今では時代が追い付き、ときには追い越していく。今後はどんな価値の提供が求められるのか。安住は許されないだろう。

無人島の最初の拠点は紆余曲折こそあったものの、医療激戦地の用賀にすっかり溶け込み、運営も安定している。次回からは、その後に生まれたさまざまな街を尋ね歩こう。

(続く)