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2023/06/26/月

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれ ー 先駆者列伝4:住み慣れた場所で最期まで。在宅医療への取組み

用賀アーバンクリニックが地域に溶け込み、ていねいな診察が評判になるころ、もう一つの街づくりが始まっていた。自宅や老人ホームで療養する人々に歩み寄り、患者自身の居室という心休まる空間でできるだけの医療を提供する在宅医療だ。高齢化社会の深刻さを肌で感じるようになった今でこそ一般的になってきたし、医療ニーズの高まりを受けて政府が奨励するほどだ。しかし、当初は手探りで進むしかない荒野だった。

切り拓いた一人が、現在は桜新町アーバン院長の遠矢純一郎さんである。立ち上がったばかりの用賀アーバンを野間口院長らと支える一方、2003年ごろから訪問診療を少しずつ始めていた。クリニックで待つのでなく、こちらから出向いて患者の要望に応えることに以前から関心があったという。

急患のもとに駆け付ける往診と異なり、訪問診療は地域の病院と連携して退院患者のケアをするほか、訪問看護師やケアマネジャーの依頼で定期的に患者宅を訪れる。ガン患者の緩和ケアや脳卒中などで運動障害のある人の診察やアドバイス、さらには看取りも含まれる。患者が住んでいるのは自宅や老人ホーム、グループホームなどさまざまだ。

患者にとって設備や医療スタッフが揃った病院にいたほうが心強いように映るが、在宅医療を選ぶ人は少なくない。気兼ねや緊張がないし、親しい人と最期まで暮らしていられるからだ。気心の知れた医師に診てもらえることの心強さもある。日本財団が2年前に実施した『人生の最期の迎え方に関する全国調査結果』でも、回答者の58.8%が自宅を希望していた。

「そこでは医師の役割も変わる。衣食住や排泄などをうまく回さないと、医療どころではなくなる」というのが遠矢さんの実感だ。日々のケアが極めて重要になり、医師はその後ろ盾であり、介護にあたる方々の相談相手でもある。医師中心に回っている病院とは異なった世界といえる。

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遠矢さんが世田谷区内の患者さんを訪れるのに同行させてもらった。狭い路地を知り尽くしたドライバーの運転で、看護師さんと一緒にご自宅に伺った。認知症などがあり、今年に入って胃ろうを造ったという70代後半の男性だ。広い応接間に電動ベッドを置き、奥さんが身の回りの世話をしている。

ほとんど言葉を発しない患者さんとは対照的に奥さんは明るい声で近況を話し、心配ごとを打ち明けてくれる。

「車いすで散歩するように心がけているが、顔色がよくなってきた」
「咳をしたら胃ろうの栄養剤が漏れ出したことがある」
「近く私も入院するので、それに合わせて夫のショートスティを手配してもらって助かった」

話題は一ところにとどまらない。日ごろの介護での積もる話を聞いてもらえて、奥さんは晴れ晴れした様子だ。遠矢さんらは栄養剤の扱い方を説明する一方、世間話にも耳を傾けている。患者さんの健康状態を判断して今後の方針を決め、処方箋を書いていく。

患者の治療は当然のことだが、それだけでなく家族の心のケアにもなっている印象だった。日々患者さんと向き合っている方々にとっては、待ち遠しい訪問だったのではないか。

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20年ほど前の話に戻ろう。在宅医療はまだまだなじみがなく、遠矢さんが抱えていた患者も少ない。外来の合間に近隣のお宅を自転車で回っていた。患者や家族に歓迎されるものの、細々とスタートした訪問診療だった。それが、早くも04年に大きな飛躍のチャンスをつかんだ。

厚生労働省の委員会で、ベネッセの老人ホーム事業を立ち上げた人物と隣り合わせた大石さんに、この男性は老人ホームを診てくれる良い医者を探すことの難しさを打ち明けた。多くのお年寄りの命を預かっているが、患者本位でいざという時に連絡のつく、頼りになる医師がなかなか確保できない。しっかりした医療機関と手を組んで万全の態勢を組みたいというのだ。

高齢者施設だけに入居者の多くは病気を抱え、急変する心配もある。運営者としての切実な悩みであった。今でこそ訪問診療や訪問看護が知られるようになり、保険点数などで経営的なメリットもある。老人ホームの主治医は人気の業務になっているが、当時は関心を持つ医師も医療機関も限られていた。

「住み慣れた場所で最期まで」という患者や家族の願いには共感できる。また、メディヴァやプラタナスの目標である理想の医療を実現するには、安定した事業基盤が欠かせない。外来クリニックは設備投資が嵩むし、立ち上がるまでの運転資金も掛かる。それに比べると在宅医療は設備投資が掛からないし、運転資金も最少で済む。 用賀アーバンの経営で手いっぱいで、新たな事業に投ずる資金がない台所事情もあり、ベネッセの申し出は渡りに舟だった。大石さんからの「やってみたい」という申し出に、用賀アーバンの実績を知る先方は飛びついてきた。新しい街が少しずつ形を現わしてきた。

(続く)