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人事ブログ

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2024/10/17/木

コラム

仕事において感情をどう取り扱えばよいのか?

採用チームのメンバーから寄せられたテーマについて考えてみるブログがシリーズのようになっていますが、今回は「仕事における感情の取り扱い方」についての依頼を受けました。

なぜそのテーマを希望するのか?気になりつつも、いつものように(怖いので?)深くは聞いていません。ざっと考えただけで仕事において感情の取り扱いが難しいと感じる場面があることは分かりますので、それくらいのゆるい前提で、どんな課題について考えるべきなのか?というところから書いてみたいと思います。

自分の体験から推測し、自分なりに確かめて考えた範囲の内容です。考え違いや検証不足はあり得ますので、読んだ方が自分で納得できる範囲で参考にしていただければと思います。

ー感情とは何なのか?ー

感情とは一般的には喜怒哀楽といった心の動きとされ、辞書を引くと、恐れ・驚き・憎悪・好意・緊張・期待・不安なども含まれるとも書いてあります。

そもそも感情はどこで感じているのでしょうか?心なのか?頭なのか?体なのか?
これまでの知識と体験を元に考えると、感情は脳や体の細胞などが自分の置かれた状況や降りかかる出来事に反応している状態だろうと思います。

ことわざに「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」とあったり、「情と理」と対比して書かれることも多いように、感情は一般に非論理的なものとされるようですが、私は感情は実はかなり論理的なものだと思っています。

対象や現象が、いまの状況が自分にとって、「生き残りのためにプラスになる確率が高い要因」なのか、幼少の頃に脳の奥深くに仕込まれた記憶への反応なのか?何かしらポジティブ、またはネガティブかという答えがあり、それ対して脳や体が反応しているのでしょうが、その答えは数式から答えが出るように論理的に決まっていると思います。

その反応は、自分に入ってくる情報に対して瞬時かつ無意識に判断を下し、理屈を考える前に、脳や身体に神経伝達物質などによって快/不快、怒り/喜びといった形で現れます。目で見える、頭で理解できる、意識できる範囲を超えたものを含めた多くの要因が絡まりつつ瞬時に反応が出るので、一見、非論理的に見えるのだろうと思います。

ー感情の何が問題なのか?ー

感情とはそういうものだとして、なぜ仕事において感情の扱いは難しいのでしょうか。おそらく感情自体は良いものでも悪いものでもなく、進化の過程で人間にとって必要な役割を持って発生したもので、それが生じる場面で、それぞれの意味と役割を持ったものだろうと思います。

問題なのは、現代の仕事の場面では、進化の過程では出てこなかったような設定があり、感情が適切な役割を果たさない場合があることだろうと思います。仕事の場面で、本来の論理や目指すものと、感情が導かれる論理が矛盾する場合に、感情の方を優先する事によって、本来仕事としてあるべき判断と異なる判断をしてしまうなど様々なマイナス面が出てきてしまう、つまり感情そのものではなく、不適切な形で「感情的になる」ことが問題を引き起こすのだと考えます。

ー仕事の場での扱い方が重要な感情とは?ー

今回のテーマである仕事における扱い方に注意しなければならない感情は、実はほぼ2つの感情だけではないかと思っています。その2つとは「怒り」と「不安(恐怖)」です。

仕事においては、論理や数字などが大事だとされ、それらを元に企画や計画が立てられるので、それらに関連の薄い怒りの感情を野放図に表に出すことは相手の信頼を失う結果に終わります。
怒りを表に出さないまでも、怒りを覚えている場面では正常な判断が出来ないことも多々あり、仕事に支障をきたすでしょう。

また、仕事に対して不安や恐怖を感じて、それに引っ張られすぎると、正しい判断ができない可能性が高まりますし、長期に渡ってそれを抱え込んだり、我慢して押し込め続けると身体や心がさらに大きな問題を抱えることになりかねません。

上にあげたものが、仕事において対処が難しいトップ2であり、100%とは言いませんが、この2つでかなりの問題はカバーできると思います。根拠はこれまで30数年仕事の中で見て経験してきたことからの帰納的な推論ですが、ここでは思い切ってそう断言させてもらいます。

それから、感情が実は論理的だとしても、そこには意識されていない膨大な要素が関わっているので、ぱっと見は非論理的に見えるし、解明には膨大な手間がかかると書きました。しかし、この2つは実はそれほど膨大な手間をかけなくても、その源泉をある程度は解明できると思っています。

ー怒りの正体についての考察ー

人はなぜ怒るのでしょうか?
それは、自分が期待していたことが起こらないからだと思います。

物にせよ、何かの結果にせよ、状況にせよ、いずれにしても自分が得ることを期待していた何かを得られないとき、もしくは何かを失ったり、奪われそうなときに人はフラストレーションやイライラという感覚が高じてひどいときには「怒り」の状態まで高まります。

期待するものというのは、
ーー
・欲しいと思う物
・取りたい行動
・望んでいる結果
・他人にしてほしい言動
・希望する評価や自分の扱われ方
などでしょうか。

期待している”得たいもの”や”守りたいもの”は究極的には命だと思いますが、命を奪われる状況に怒るよりは、そこにつながる道筋としての”何か”に対する怒りの場合が多く、上記のリストは生存につながる道筋のリストなのではないでしょうか。

上記のリストの中でも特に人が鋭く反応するのは、「自分の扱われ方」だと思います。人は侮辱されたり、自分で思う価値より不当に低く評価されたり、公平に扱われないときに最も怒るのではないでしょうか?

何かを得ることが生存に関わっている状況で、それを妨げられることが大きな反応を生むことは自然なメカニズムだと思いますが、希望する評価や扱われ方をされないことは直接生存に関わっていないようにも見えます。人がそれらに対して鋭く怒るのはなぜでしょうか?

「自尊心」や公平を求める気持ちは、実は食べ物や親(もしくは近い関係の保護者)からの保護に繋がっているのだと思います。

テレビで芸をするニホンザルの行動を見ることがありますが、一緒に飼われている猿の中では厳密に序列が決まっているそうです。食べ物もその順番でもらうようになっているのですが、飼育係の人がその順番を守らない場合にその猿は烈火の如く怒っていました。

動物園の猿山でも同じように序列があり、自分の序列が食べ物を得られる確率や量に影響しているということで、序列を最重視する本能が生まれたのだろうと想像しました。動物がきょうだい間で親から与えられるエサを取り合うような場面、親からのケアを争う姿もよく目にします。おそらく人間にも同様の感覚はあるように思いますが、これも生存に結びついて発達した感情だと思います。最近よく「マウント」という言葉を聞きますが、この言葉も元々は動物に関する用語です。

さらに、人間は”共感”する力を持っていますので、他人のためや社会のためにも怒ります。これも自分の延長上としての誰か個人や集団、社会のために怒るのだと解釈しますが、形としては正義や公平などを求める感情として現れるのだと思います。正義感などはかなり怒りの感情に近いものだと私には見えます。

ー怒りはどうしようもないものなのか?ー

そう考えると怒りは本能なので、自分ではどうしようもないのでしょうか?

そうではないと思います。
人が感情を持つときに、実は論理的な根拠が背景にある、という話をしました。自分が不当に扱われていると判断するときの論理とはどのようなものでしょうか?

まずは、関連している要因として以下のようなものがあるはずです。
(1)自分にとって望む扱われ方や状況(期待)
(2)その時に起こっている事の見積もり(現実)
(3)自分が正当に扱われているか否か?(結論)

考えてみれば、3を導き出すための(1)、(2)はどちらも自分の主観によって決められているものです。
(1)は自分が思う基準で、自分の序列のようなものが想定されているはずです。
それは世の中での漠然とした序列や、身近な人との比較などで構成されているように思いますが、先入観とか固定観念といったものが相当入り込んでいるはずです。

望む行動が妨げられるような場合の怒りであれば、自分が思ったようにスムーズに行ってほしいという期待値があるはずで、これも自分が勝手に思っているだけのものかもしれません。無駄な期待、勝手な思い込みを持ち込まないことで、結論はかなり変わってくると思われます。

(2)は、もし目の前に人がいてその人の接し方について判断するのであれば、表情や口調、話の内容などから自分なりの推測で判断する部分が大きいでしょう。そして(1)と(2)を比較することで、不当であるとか正当であるという結論を出している訳ですが、これは自分の中で一瞬に感覚的に判断していることもあり、かなり不確かだと思います。

できること① 現実を客観的に見直してみる

これらに対して、感覚や無意識の判断ではなく頭を使って論理や因果関係で判断して検証することによって、自動的に生まれてくる怒りがかなり変わってくる可能性があります。例えば、相手が勘違いして誤った情報を元に考えている場合もあるでしょうし、単にこちらが誤解していたということもあるでしょう。

そもそもが、上に見ている<―>下に見ている、尊敬している<―>蔑んでいる、という白黒ではなく、どちらでもない普通、という状態も多くあるはずです。必ず白黒をつけて物事を見るよりも、判断を保留して何となくぼやっと状況を見ることも有効だと思います。

できること② 自分を客観的に評価してみる

さらに考えてみると、相手が見ている自分の姿はよほど意識をしないと自分ではわからないものです。そして、先ほどの(1)の前にもしかしたら(0)として「本当の自分の内容」や、それに対して世の中が下す通り一遍の評価、というものがあり、(0)と(1)の間にはそもそもギャップがあるかもしれません。

いずれにしても、相手には自分がどう見えているのだろう?とか、その人に見えている世界やその人にとっての判断はどのようなものだろう?と、冷静に考えてみることも有効だと思います。そこでもし自分に足りないものがあるのであれば、自分を変化、向上させることを考えてみます。例えば、何か具体的な事がより上手くできるようになろうと努力することなど。本当に自分を変えることができれば相手の見方にも変化が現れる可能性は高いと思います。

できること③ 意識の方向を人から物事へ変えてみる

「自分を客観的にみる」「自分を変える」ということを上に書きましたが、このことの効果は、実は自分が変わるより前に現れます。それは、これによって感情を抱く対象が、人間やその人の判断の中身から、自分が取り組む努力の対象に変わるということです。

ここまで書いてきた怒りの相手はほとんどの場合、”人”に向けられているのだと思います。前述した、元々は生存に関わっていた序列に対する本能的な感覚は、同種の生き物が相手な訳ですから、人間にとっても相手が人間であると特別な感覚を抱くものだと思います。物を憎む、技術を憎む、ということも100%無いとは言いませんが、かなり少ないでしょう。社会や不正義に対して感情を抱くケースはあると思いますが、これもある程度は”人”に向かう感覚を含んでいると思います。

そう考えると、相手が人であるということから意識を逸らすことはとても重要だと思います。私は、相手がどう対応してくるか、相手が自分をどう思っているか、相手が自分の思い通りの行動をとってくれるか?などは、自分がコントロールできないある種の”自然現象”だと思うことが多々あります。そうすると誰かの自分に対する扱いの感覚が変わります。

いずれにしても、人ではなく何か、努力の対象や目指すものに相対してく状況を作ることで、人に対する感覚が薄くなり、感情を排してより淡々と受け止めたり取り組める効果があると思います。

できること④ 自分の期待、想定を見直してみる

もう一つ、かなり有効だと思う考え方は、自分が期待していること(1)には本当に意味があるのか?と考えてみることです。人から、世間一般からありきたりの基準で評価されて扱われることにそこまで自分が意味を感じるべきなのか?とか、全ての人や物事が自分の思うようになるはずという思い込みに意味があるのか?ということです。

私たちは猿山の猿ではないのですから、画一的な序列に並べられるのではなく、人間らしく多様な価値観で自分なりに面白いと思えること、自分が幸せを感じられることを追いかければ良いのではないか?と考えてみることが怒りに対する根本的な解決になるように思います。

このように、怒りを構成する要因に理性の光を当て、論理的に考えていくことで怒り自体を減らすことは可能だと思います。

ー怒りを表に出すことのコントロールー

街でも怒りを制限なく表に出している人をよく見かけます。カスハラという言葉が急速に広がっていますが、客が店員さんや駅員さんに噛み付いている姿が頭に浮かびます。仕事の場でもそれなりに見かけます。

抑えられずに思わず出てしまうケースもあると思いますが、怒りの態度を取ることで”威嚇”する効果を出して、それによって相手を思うように動かそうという意図がありそうです。これも上述したような進化の過程で身につけた一つの手段なのでしょう。野生においては、威嚇は次の段階にくる暴力を予想させ、それが相手を自分に従わせる手段となり得ます。しかし、現代では怒りによる威嚇が奏功する場面はそう多くはないですし、最終的には自分にマイナスが戻ってきてしまうと思います。

怒ることはエネルギーを消耗すると思いますし、それが常態化すると体に悪いとも思います。また、社会的な評価も落ちることが多いし、身近な人間関係が壊れる危険も高まります。

普段から怒りの役割や、怒りを表に出すことの因果関係やメリット・デメリットを考えておくと、咄嗟の場合に怒りをコントロールできる可能性も高まると思います。よくアンガーマネジメントで怒りを感じたら、それを表に出す前に1−6までカウントする、という話を聞きますが、咄嗟にこれをできる可能性も高くなるのではないでしょうか。

ー相手が怒っている時の対応についてー

ここまで、自分が怒る側に立つ想定で考えてきましたが、誰かが自分に対して怒っていることもよくあると思います。やはり本能として、目の前の人が怒っていると恐怖を感じるのが普通ですし、逃げ出したくなるのも普通です。

でも仕事の場では、責任感があったり、冷静に考えて仕事の場から逃げ出すと良くないことが後で起こりそうだと考えたり、と逃げ出してはいけないと感じる人も多いでしょう。そのような時にどうしたら良いでしょうか?

まずは、殴られるとか危害を加えられそうだと感じたら迷わずに逃げることです。冗談で言っているのではなく、恐怖というのは、こういう時のためにあります。体の反射的な反応は、考えていたら間に合わない、こういう瞬時の対応が必要な時のためにあります。ここまで感情を悪いもののように扱ってきましたが、こういう時こそ変に理性的に頭で考えず本来の目的を発揮するべきです。

ある程度、直接的な危害がなさそうな感覚の場合には、逆に理性を働かせることです。怒っている相手に怒りを返すのは上策とは言えず、お互いに収拾がつかない事態になってしまいます。

ここでは理性を働かせ、自分の怒りを分析したのと同じように、相手が何に対してなぜ怒っているのかを、なんとか対話を成り立たせたり、推測したりして解明することが対応するのに役立ちますし、その過程で相手の怒りが収まる場合もあると思います。

そして、最終的な手段は慣れることだと思います。深刻な危害は避けるという前提において、ですが、恐怖を抑えて理性的に対応するためには、怒っている相手に対する恐怖を手懐ける必要があります。人間の本質の一つは、何にでも慣れるというか、適応できることだと思いますが、恐怖も例外ではありません。初めは恐怖を感じたことでも、何度か対処して、そこまで酷いことにはならないと体験すれば、最初の感覚とはかなり変わってくるはずです。無意識の部分が自然に納得して危険の見積もりをグレードダウンするという感じでしょうか。

ただ、常に誰かの怒りに晒され続けるような環境に適応する必要はないと思うので、慣れというのもあくまでも、怒りに対する初動の部分をクリアして、その後の理性的な展開に繋げることができるまで慣れる、というくらいに考えておいた方が良いと思います。怒りに対峙し続けるマイナスと比較して、そのほかのプラスが感じられないような環境は早く離れることが有力な選択肢だと思います。

ー不安・恐怖についての考察ー

不安と恐怖も仕事の中では無視できない存在です。
仕事に対して不安や恐怖を感じて、それに引っ張られすぎると、正しい判断ができない可能性が高まりますし、それ以前に、自分が何かを決めることに躊躇することもあるでしょう。また、不安や恐怖を長期に渡って抱え込んだり、我慢して押し込め続けると身体や心がさらに大きな問題を抱えることになりかねません。

先に恐ろしいことが待っている、と恐怖を予想する時に出てくる感情が不安だと解釈しているので、不安と恐怖は一体として考えたいと思います。

仕事の中で人が持つ不安(先に待っている恐怖への感情)にはどんなものが多いのでしょうか?
・仕事を失敗すること
・失敗によって叱責されること
・良い評価を得られないこと
・自信を失うこと
・仕事を失うこと
、、などでしょうか。
これらはいずれも、仕事の場面では起こりうることであり、現実に起きた場合にはそれなりの恐怖を感じて然るべきだとは思います。

しかし、その恐怖や実質的なマイナス面は、思っていたほど大きい物なのでしょうか?
実は、人間が頭で感じている予想はそれほど正確ではないと思います。「案ずるより産むが易し」と昔から言われますが、本当にその通りだと思うことが多いです。

私の中では、不安に対する特効薬は以下の3つです。
1:懸念している内容に対して今できる準備をする。
 (今の自分ができる範囲の準備をしたらそれで足りているかどうかは考えず、あとは本番で対処する)
2:「早くその時が来て現実に対処したい」と考える。
 (待っている間の方が居心地が悪い)
3:その時が来たら全力で対処し、至らないことがあったら次への教訓とする。落ち込まないようにする。

「面倒くさいから今やろう!」というような言葉を聞いたことがあり、なるほど!と膝を打ったことがあります。面倒くさいからやらない、というのが普通でしょうけど、そうするといつまでも面倒くさいことが頭に残りかねません。対処するまでそのままだと困ったことも増幅するかもしれません。

だから面倒くさいことほどすぐやろう、という考えだと思いますが、これと似たような感じで、怖いこと、不安なことには、飛び込んでいくのが一番だと思っています。

正直に言えば私自身は、面倒くさいこと、怖いことをそんなにササっとやれる人間ではありませんが、その境地を目指して頑張っています。実際にやってみると本当にその通りで、「怖い怖い」と思って待っているよりも、案外直面してしまった方が楽です。少なくとも終わってくれます。結果が思わしくなければ、多少なりとも落ち込むでしょうし、自信を失う可能性もありますが、それも慣れかなと思います。

怒っている相手に対する恐怖の話しでも書きましたが、慣れ(適応)というのはとても有効な武器だと思います。よく考えてみれば、人間が地上最大とか最強の動物ではないのに、現在の位置にいるのは適応力が最大の強みだったのだろうと思うので、もしかしたら慣れ(適応)は最強の武器かもしれせんね。

いずれにせよ、不安・恐怖に対する場合に一番避けなければいけないのは、不安だからやらない、ということではないかと思うので、怖いからやろう!という考えで向かっていくことではないかと思います。その際に、闇雲に飛び込むのではなく、理性の力、頭脳の力をできるだけ使って計画、対処することが必要だと思います。

ーその他の感情についてー

怒りと不安・恐怖について書いてきましたが、そのほかにも仕事や日常の中で取り扱いに苦慮する感情はあると思います。例えば、嫉妬心、差別感情、緊張、落ち込み、、などでしょうか。これらについても上に書いたようなことから派生していることが多いように思います。

例えば、自分が不当に扱われていると感じた時に、怒りにいく場合もあれば、落ち込みに行く場合もあると思いますが、そこに理性や論理の目を向け、自分にとって本当に意味があることに絞り込んで対処するという形で同じ土俵で扱えると思います。

怒りはどちらかというと手懐ける、コントロールする対象ですが、落ち込みは自信を増す方向の対処が必要だと思います。感情の導かれ方を考え、状況や自分を客観的に評価し、怖さに対処しつつ物事に集中して取り組む、ということを繰り返していけば自信を付けることができると思いますが、自信についてはもう少し広がりのあるテーマなので、改めて考えて人事ブログに書いてみたいと思います。

ー感情とは必要がないものなのか?ー

ここまで、どちらかというと感情が問題を引き起こすという前提で、それを避けるには?といったことを考えてきましたが、そもそも感情は必要ないものでしょうか?

まったくそんなことはなく、むしろ逆だと思います。
ここまで取り上げたのはネガティブな感情が主でしたが、喜び、楽しさ、期待感などプラスの感情があるから仕事にパワフルに取り組める場面があると思います。

また、人との関係がマイナスの原因になるという内容もかなり書きましたが、逆に人との交流の中でやる気を掻き立てられたり、人が人をインスパイアすることも仕事の中では必須だと思います。一緒に取り組むことで喜びや感動が2倍にも3倍にもなると感じます。

「感情的」は悪い意味で使われることの方が多いですが、「感情豊か」といえば良い意味であるように、感情が豊かな人は魅力的で、人に元気を与えられ、人から好かれることが多いと思います。

ー感情との付き合い方の全体像ー

仕事の場面を想定して、個別に感情の取り扱いについて見てきましたが、ここまで考えてきたことをもとに、人生の全体として感情との付き合い方を考えてみたので、簡単ですが箇条書きにまとめてみました。

【感情との付き合い方4原則】
・感情とは論理的に導かれているもの。その論理を解明することが感情と付き合うために必須である。
・感情の背景に理性や理屈の光を当て、背景、前提を妥当な形に調整することが重要となる。
・楽しさ、喜び、期待(ワクワク)などプラスの感情を推進力や自分への報酬と考える。
・恐怖心を手懐けるのは「慣れ」。怖さをもたらすものにはむしろ取り組むことで怖さが解消する。

考えてみれば、もし人間に何の感情もなければ人生はどれだけつまらないものになるのか、おそらく想像を絶するつまらなさだと思います。時には取り扱いが厄介に思える感情ですが、実は人間にとって間違いなく必要なものだと、今回の考察を通じて強く思いました。(岩崎克治)

筆者プロフィール
岩崎克治 Katsuji Iwasaki 株式会社メディヴァ取締役
大阪大学大学院 情報工学分野 修士課程修了。
マッキンゼー・アンド・カンパニーのコンサルタントを経て、1997年に(株)インクス入社。ITによる高速金型事業の立上げ、クライアント企業の製品開発プロセス改革等に従事。2002年メディヴァに参画。

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