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メディヴァの人事ブログ
私たちの日常、仕事、仲間、価値観などを
理解していただくために綴るブログです。

2020年09月10日(木)

私の経歴書ー⑩-

「私の履歴書」シリーズですが、今回はコンサルティング事業部の福地が担当します。
私は主に、クリニックの開業や健診センターの立ち上げに携わっています。

35歳で、多くの転職を経験してからメディヴァに入りました。「恥の多い生涯を送ってきました」と誰かが書いているとおり、恥ずかしくなってしまうような事ばかりですが、極力正直に書いていこうと思います。
同じような年齢で入社を検討されている方の参考になれば幸いです。

■北海道生まれのはなし

私は、北海道で生れ高校まで道内で過ごしました。
“大自然”とイメージされる北海道ですが、本州のように「四季折々の景色を見せる自然と」といったイメージとはかなり異なります。なにせ年中寒いのです。樺太のユジノサハリンスクと同じ冷帯に属しており、冬とその他の少し暖かい時期で1年が出来ているイメージです。
兎に角、冬が長いので、いつも「先祖はよくここに移住したな」と感嘆します。たぶん、それまで雪を見たことすらなかったはずです。そして、移住をせざるを得なかった事情にも思いを巡らせます。父方は戦後の生活を成り立たせるために、母方は信仰上の理由から、ともに新天地を求めたのでしょう。その影響もあってか、私はフロンティアスピリッツに心ひかれます。故郷をほめているのか、けなしているのかよくわからないですが、郷土愛とは、このように、複雑なものなのです。
家庭環境もそうですが、自然環境もひとの感受性や思考方法に大きく影響を与えると思います。私の性格に「陽」な部分が少ない言い訳ではありませんが、兎にも角にも、北国の夏は短いのです。

■医療のおかげとお金のはなし

幼いころは、気管支炎を患い病弱であったため、しょっちゅう病院に通い、また何度も入院をしていました。そのため、医療は特別なものではなく、日常そばにあるものでした。あまりうれしくないことでしたが。
また、他人である医療職者が自分のために一生懸命働いてくれるのを見ていたため、子どもながらに「恩」の様なものも感じていました。
それに加えて、母方が北海道への移住前から代々薬局を営んでいたため、患者さんと接する祖母や母の姿を見ていたことも医療を身近に感じさせました。「患者さんがいつ来るかわからないから」といつもびっくりするくらい早飯だった祖母を今でもたまに思い出します。

また、幼いころから医療とお金についても考えていました。私が小学校高学年くらいの時期から、昔は繁盛していた祖母の薬局の経営が少しずつ傾きだしたからです。お年玉が年齢に反比例して減額されていったため、痛切に感じられました。お年玉の推移から懐事情を推察するような薄情な孫は真っ先にコスト削減対象になったわけです。
子ども心に「あんなに患者さんから“先生、先生”としたわれているのに、なんでお金がなくなっていくのかなぁ」と不思議でした。

今になってみると、過疎化による人口減少やドラッグストアの進出などの外部要因と祖母が昔ながらの商売のスタイル(分相応な在庫量や投資、高額な調達費の維持など)をかえられなかった内部要因があったのだと思います。内部要因については街が出来る前からその地で薬局を開いたというプライドが邪魔をしたのかもしれません。上げたプライドを下げるのは至難の業です。
社会にとって意義の高い医療であるから、といって経営の盤石性がなんら保障されるわけはではないと知りました。

■上京したはなし

大学入学を期に北海道を離れ上京しました。学生寮に入れたのがラッキーでした。寮は北海道民の子弟のみで、道内各地から集まった優秀で個性の強い仲間と酒など色んなことを覚えました。
上京の理由は「東京に来れば何か良いことが起きるはず」と思い込んでいたからでしたが、そうは問屋が卸すはずありません。
結果、大学4年間で学んだことは、「自分のしたことの積み重ねでしか望んだ変化なんて起こらない」ということでした。大学時代の記述の薄さが陽側のキャラクターではないことを如実にあらわしています。

■働きだした頃のはなし

就職は新聞記者を目指していましたが、片っ端からおちていました。
そんな折、先に就職が決まっていた同郷の親友から外資系の医療メーカーを紹介してもらい、何とか営業の職にありつくことが出来ました。

会社は唯一無二の特性をもった製品を多数扱っていたため成長力と規模を持っていました。そのため、競争力の根源であるパテント(特許権)に対する考え方はとてもシビアでした。No.1シェアを誇っていたデバイスのパテント切れが近づくと、売り上げは落ちていないにも関わらず、まるごと事業譲渡するほどでした。もちろん、所属するメンバーごとです。思い切りの良さと戦略性に驚かされました。
「こうやって会社は成長し続けていくのだな」と理解すると共に、「会社の規模や売り上げと自分の将来への期待は別物だな」と外資企業に入って浮かれていた自分を戒めました。

会社に入ってから、内気な性格であったにも関わらず、営業やプロモーターなど顧客や多くのヒトと接する業務を担当できたことはとても良い経験になりました。顧客に恵まれていたこともあり少しずつ人慣れし、自信がついていくことを実感できたからです。出色の成果があったわけではありませんが、多くの責任と裁量を任せてくださった上司の皆さんには頭が上がりません。

他にも学んだことは多いですが、一番はIT部門の上役の方から教えていただいた“何かスキルを身に着けたいなら仕事を通して学ぶのが一番手っ取り早い”という言葉です。経験からもその通りであると思います。仕事であると途中で投げ出すこともできませんし。今でもこの言葉を大事にして実行しています。

お世話になった医療メーカーでしたが、新卒入社から7年目に会社丸ごと、グループ本体から外資系の投資運用会社へ売却が決まりました。ついに自分の番が回ってきてしまったのです。

やはり、会社の流れに揉まれない、強い技術を身に着けたいと司法試験に挑戦する決心をしました。(私は法学部出身で、曾祖父が検事であったのも理由です)そのため、妻の実家のあった東京に引っ越し、自由時間を確保できる仕事に転職することとしました。

■医療現場で働いたはなし

その後、産婦人科クリニックで事務長として働き始めました。

夜間は司法試験の勉強をしようと思っていたため、自宅の近所にあり、比較的時間に余裕のありそうな職だと考えたからでした。もちろん、医療との縁もありますし、一度現場を知りたいと思ったのも理由でした。

しかし、何でもやってみないと分からないもので、はじめの2年間は週に4日間出張をしていたメーカー時代よりも多忙でした。原因はいろいろありましたが、一つは自分がなんでも関わらないと気がすまなかったからです。また、初めての職種で結果を出さなければ、出せるはずと独りよがっていたのかもしれません。

今、振り返ってみると我ながら滑稽ですが、本院(グループ病院であったため日本各地に分院があり、私は東京分院の事務長でした。)には常日頃、分院への権限移譲を強く要求しながら、自分はヒトに任せることが出来ていませんでした。必死で取り組んでいる自分に酔っていたのかもしれません。

最初は、カラ回っていたわたしですが、空席であった病棟師長を引き受けてくれる若手の助産師さんや、外来のとても優秀なリーダーさんと毎日コミュニケーションを重ね、一緒に仕事をしていくうちに、変わっていきました。勇気をもってお任せした後に期待以上の結果を返してもらう喜びを知ったからです。

独りよがりの必死さや根性に逃げてはいけないと痛感させてくれたのがこの時期です。また医療現場が抱える問題(後述します)を感じたのも同時期です。

産婦人科での仕事はとても充実していましたが、肝心の司法試験勉強の方は手付かずになっていました。このままでは医療メーカー時代と変わらない、と危機感を覚え、仕事を辞め、司法試験の勉強に専念することとしました。
妻には多大なる迷惑をかける決断でした。

■司法試験挑戦と敗れたあとのはなし

職を辞したのち、地元の北海道に帰り、およそ1年半にわたって毎日司法試験勉強のみの日々を過ごしました。人生史上最も勉強した時期です。

しかし、残念ながら(本当に残念でした)、合格することはできませんでした。単に努力が足りなかったのと、効率化が徹底出来ていなかったからだと反省しています。

また、職に就いておらず、学生でもない(法科大学院に通う余裕はなかったため、司法試験予備校をオンライン受講していました)ことの不安感も体験しました。完全なる勉三さん(藤子F不二雄「キテレツ大百科」を参照されたし)でしたから。

1年半の結果で胸を張れるようなことは何もありませんし、不安感に苛まれた時期ですが、完全に自分のしたいことを自分のためだけにできた幸せな時間でもありました。ただ、つらいことですが、資格勉強は合格しない限りはやらないも同然だとも分かりました。これは認めなければいけません。

いつまでも敗戦気分に暮れている訳にはいきません。社会に復帰するため、税理士事務所に入りました。元々、財務に苦手意識を感じていたからです。この時期得た知識の効果は、司法試験受験期間よりも大きいかもしれません。学びの機会をくださった事務所の皆さんに感謝しています。

■再上京とメディヴァに入ったはなし

税理士事務所で学んだ後、妻と同居するため東京にもどると決めました。しかし残念ながら同居はかなわず、さらに独身にもどってしまいました。当然といえば当然です。自分のやりたいことや夢を追いかけることは自由ですが、大人になると、どうしても誰かを巻き込み、迷惑をかけてしまいます。特にパートナーには。夢を追う代償はあまりに大きいものでした。

また、試験に敗れたことで、仕事についての将来計画も方針転換を余儀なくされました。次にどのような仕事につくか、問題です。ものを考えることはもともと好きですし、大きな裁量を任せてもらえる環境も望んでいました。また、私の年齢からこれまでの経験に近い医療業種であることも条件です。

そこで、メディヴァに出会いました。

面接の時に、これまでの夢追いがちな私の経歴を黙って聞いてくださっていた役員が、「おのずと自身の取るべき選択肢は狭まってくる。これから、それを見つけていけばいいのではないですか」といった内容の言葉をかけてくれました。
夢破れ、惨めな気持ちになっていた私には正直ありがたい言葉でした。また、「こんな短時間でここまでヒトを分析できる明晰な頭脳をもった人がいる会社で働いてみたい」とも強く思いました。

■これからのはなし

メディヴァに入社するときに私は目標をたてました。
そのひとつが、「医療とお金、医療と組織について自分なりの理解を得る」です。

医療とお金はマクロ視点でもミクロ視点でも切り離せない関係にあります。祖母の薬局だけの話ではありません。健全な経済性の追求は医療の今後に必ず資すると考えています。この適切なバランスを見つけたいのです。

また、これまで、連日の当直の疲労により脳卒中を勤務中に起こされマヒが残った医師やストレスによる噛みしめで奥歯がほとんどなくなっている医師、睡眠導入剤が欠かせない看護師など目にしてきました。みなさん、とても仕事熱心でかなりの自己犠牲を払っていました。
医療はとても社会的意義の高い分野であると思います。しかしだからと言って、自己犠牲を包含した仕組みは間違っていると考えます。
ひとつに個人頼みの組織は持続可能性が下がりますし、ふたつ目に逆説的ですが、自己犠牲は独善性を生むと考えるからです。どちらも組織運営として問題です。

もちろん、日本の医療水準の高さは個々人の努力や思いやりによって保たれているのも事実です。海外の医療機関に電話で問い合わせを行うと対応にびっくりします。そして、この二つの関係に納得できるバランスを見つけるためには、冷静な分析と思考のための自律的な「環境」とやりがいのある「仕事」が必要です。メディヴァには、そのどちらもあると、いま実感しています。

実際に大きな裁量を任せてもらい(我々は、裁量と責任があればあるほど、一生懸命取り組むのだと思います)、自由に考え、創造できる喜びを日々感じています。

身内贔屓みたいになってしまいましたが、本気でそう感じています。

振り返ってみると、負けてばかりですが、周囲の人々に支えられ戦うことができた私の履歴です。
こんなメンバーもここメディヴァで働いているとご理解いただければ幸いです。