RECRUIT BLOG
2024/08/05/月
寄稿:メディヴァの歴史
すぐそばに湘南の海が広がるとあって、診察はアロハシャツに短パン姿である。鎌倉アーバンクリニックの髙橋究院長は、赤銅色に日焼けしている。診療の合間にはパソコン画面に向かってソフトをいじくっている。
クリニック自体も他所ではなかなか見られない造りだ。青い三角屋根の白い洋館の2階にあり、室内にはハワイアン風の家具や調度品が置かれ、壁には写真や絵がいくつも飾られている。道路に面して窓が開かれ、リゾート地でよく見かける小洒落たカフェかレストランのようだ。
2006年の開業を前に、メディヴァの面々は入居先を探して鎌倉駅周辺を歩き回っていた。古都鎌倉は建築規制が厳しいこともあって、出回る物件は非常に少ない。当時、メディヴァの一員として立ち上げにかかわった静谷隆浩さんは「鎌倉駅から長谷あたりまで、ひたすら歩き回った」と振り返る。
すると鎌倉駅西口から少し歩いたところの2階に空きフロアがあるのに気が付いた。大家のタクシー会社が関連事業として焼肉店をやっていたスペースだ。繁盛した店を、忙しくなったのに嫌気がさしたオーナーが突然閉めたのだという。階段を上がらないとならないうえに、当然だが間取りは飲食店そのもの。最初見に行った時には閉店から何年も経っていたのに、昨日まで営業していたように鉄板や備品がそのまま残る廃墟だった。
医療施設とはまったく縁のなさそうな物件とあって二の足を踏みそうなところだ。しかし、鎌倉駅から徒歩5分足らずという立地の良さ、大きな通りに面した利便性や分かりやすさは捨てがたい。貸し物件ではなかったが、不動産業界の経験もある静谷さんらは大家との直交渉で契約にこぎつけた。ヨットを愛する髙橋院長の雰囲気に合わせ、海のイメージで内装を一新した。元はバーカウンターがあったという部屋が診察室である。入った当初は10年以内で立て替えるということだったが、そのまま今に至っている。
小児科医として市内にある80床の中小病院にいた髙橋医師だったが、この勤め先が買収されたことで経営方針が変わり、不採算部門である小児科は閉める方針となった。鎌倉市から小児科が無くなる、という危機感から知り合いの大石さんに相談した。神奈川県を担当する施設在宅医療部の運営にも好都合ということから、最終的に開業が決まった。
いま鎌倉アーバンのもとに外来部門と施設在宅医療部が置かれている。当初お互いの交流は乏しかったが、コロナ禍への対応の経験も重ね、最近は事務や看護師の支援などで協力しあっている。
06年の開業からしばらくの間、外来は調子よく回った。「くま先生」の愛称で呼ばれるほど親しまれてきた院長とあって、病院時代からの患者がこちらに通うようになった。「子どもの顔をよく見て、それでも不安な場合は、遠慮なくいらしてください」との呼びかけ、小児科医の仕事の半分はお父さん、お母さんを安心させること、という診療姿勢が地域に受け入れられた。
ただ、近年は耳鼻科や皮膚科の専門医院との競合が激しく、患者が小児科に限られるようになったことで経営環境は厳しくなっていた。小児科専門医院が増えた影響に直撃された他のアーバンの外来とは逆の現象が起きていたわけだ。
その流れが変わったのはコロナだった。「小児科は風邪科、感染症科であり、いつも発熱外来だ」と常々語っている髙橋院長である。他の医療機関が診察に極めて及び腰だったときに、時間を区切って発熱患者も受け入れ続けた。2500人くらいはコロナ患者を診たのではないか。すぐに診察が受けられるという口コミやSNS情報で遠くから駆けつけてくる人もいた。
院長自身は風邪で休んだことはないし、インフルエンザも軽くかかった程度。外来の小児科医は軽度の感染状態に常に置かれているので、よほどのことがなければ重い症状にはならないそうだ。対照的に感染対策が講じられている病棟を担当する小児科医が外来に入るとてきめんに風邪をひくと笑う。
いま、鎌倉の外来患者は日々30人から40人といったところで、単体での黒字をキープしている。ここにはコロナ受診をきっかけにやって来るようになった大人も含まれている。
特筆すべきは医療のIT化への積極的な取り組みだろう。電子化を進めたクリニック内にカルテ棚はない。開院の当初から紙は基本的にゼロという。医者になりたてだった40年以上も前、先輩に連れられて秋葉原に行き、日立製の簡単な機器を買った。それ以来コンピューターと向き合っている。
電子カルテ(商品名「WINE STYLE」)の開発に取り組んだきっかけは、大学から派遣された病院の小児科での体験だった。カルテも処方箋も手書きとあって、ボールペンのインキは1週間で空になった。仕事をはかどらせるには電子化が欠かせないと考え、1991年ごろから独力で作り出した。初めは自分一人で使うためだったが、勤務先の全外来で使うまでになり、実績も積んできた。2002年には商品として販売する体制を整え、開発や維持にあたる有限会社「キワム電脳工務店」を設立するまでになっている。
医師自身が実体験を踏まえて開発し、今も改良を重ねている。使い勝手の良さや必要な機能の絞り込みなどが評価され、全国の200か所で使われている。患者の禁忌の薬についてポップアップで警告が出るほか、薬と病名を紐づけ、一方のデータを入れるとそれに対応したものが表示されるなど、現場のニーズを踏まえた機能性が特徴だ。
設立当初から電子化に積極的なメディヴァ・プラタナスとの縁もここから始まっている。1995年から続く電子カルテの学術会議「シーガイヤミーティング」で大石さんと知り合ったのは、2000年ごろのことだ。宮崎の会場での第一印象は「短パンに髭で、怪しい人(笑)」(大石さん)だった。現在は桜新町アーバン院長の遠矢純一郎医師が髙橋さんの働く病院まで見学に来たこともある。
髙橋院長は徹底した「Mac党」で、このシステムもウィンドウズでは使えない。1991年、アップルを離れたスティーブ・ジョブズ氏が開発したNeXT Computerを使いだしたのがきっかけで、のちにアップルと統合したため、今はMac党なのだそうだ。同志には松原アーバンの梅田耕明院長がいる。
一方、施設在宅医療部には、常勤医2名、非常勤医2名、看護師2名が働き、横浜市や鎌倉市の老人施設の入居者ら250人を診ている。外来は院長と看護師、事務それぞれ1名、そのほかに非常勤医がいる。
コロナのときには、いつスタッフが出勤できなくなるかが予測できない事態となった。そのため、早野惠介副事務長は訪問診療でのカルテの確認から算定まで在宅で処理できる仕組みをつくった。元々ブラウザーで使える電子カルテに加え、VPNを使ってレセプト処理を済ませるように工夫した。おかげで大きな混乱もなく乗り切っている。
髙橋院長は今もヨットを続けている。7月下旬に予定されていた2日がかり180マイルの外洋レースは天候の悪化で延期されたが、次の機会を狙っている。当人は大腸がんを患ったことがありストーマ(人工肛門)を装着しているが、「ヨットマンとしては都合がいい」と豪語する。海の上での排泄処理が簡単だからというのだが、なんとも豪気な方である。