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2024/02/19/月

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれ ー 先駆者列伝20:ミャンマー女性を乳がんから守る

無人島の街づくりだけでは納まりきらない。取り巻く海の向こうには何があるのだろうか。未知の土地でもこれまでに培った知識や経験は生かせるはずだ。

次々と新たな分野を切り開いてきた人々が、いくつもの偶然はあったものの、海外事業に目が向いたのは驚くにはあたるまい。その一つが2012年からミャンマーで手掛けた乳がん検診普及プロジェクトである。

この国では乳がんの発生率が高く、亡くなる女性の数は子宮頸がんや肺がんと並んで多い。そこにイークで培った検診技術や優れた検査機器を持ち込めば、大きな国際貢献になる。その理屈は分かるが、なぜミャンマーだったのか。

この辺りの経緯をまずは大石さんに聞いてみよう。

“1ドル80円という今では信じられないような円高が進んだ2010年ごろ、米GE社が企画した韓国の医療視察ツアーがあった。隣国の医療事情への関心から、後の海外事業部長である鈴木将史さんらと参加し、現代グループの病院を見学して驚いた。

まず病院の規模が日本と比べて格段に大きく、1000床もある。防空壕代わりに掘られた地下3階にはショッピングセンターがあり、患者が点滴スタンドを押しながら買い物をしていた。一番驚いたのは院長室で、壁一面に設えられたディスプレーにはCTやベッドの稼働データがリアルタイムで表示されている。韓国のお家芸と言える美容形成クリニックには海外から患者が押し寄せていた。韓国はここまで進んでいるんだ。日本以外にも目を向けなければ、と思った瞬間だった—”

メディヴァに戻った大石さんらが韓国で見聞きしたことを話すと、「私たちも海外をやりたい」と藤原智子さんと園田紫乃さんの若手社員二人が手を挙げた。そこで「何をやりたいか、どこでやりたいか、どうやってファイナンスするか、考えてみて」と投げかけたそうだ。

「どこ?」という問いに対しては、すぐ「私達、ミャンマーに行きたいです」との答えが。すでに医療ビジネスが進んでいるシンガポールやタイなどは論外で、インドネシアやマレーシアも競争が激しそう、というのは後付けの理由だ。本音は単純に「ミャンマーに行ってみたい!」という気持ちだった。

その頃、長らく軍事政権が支配していたミャンマーは民主化に動き出していた。2010年にはアウン・サン・スー・チー氏の軟禁が解かれ、国際社会に開かれる時期である。12年の補欠選挙ではスー・チー氏が率いる野党が圧勝している。

では、ミャンマーで何をするのか。調べてみると、乳がんが大きな課題だということが分かった。中年から太りだす傾向があるからか、未婚の尼さんが多いからか、発症率が高く、国としても対策に頭を痛めていることも分かった。乳がんであればイークの実績があり、やるべきことも分かっている。

「どうファイナンスするの?」という課題に、二人は経済産業省の補助金事業を探してきた。ちょうど日本政府が医療分野の海外展開に力を入れ出し、補助金事業が始まっていた時期だった。

目指すのは、日本式の乳がん診療のパッケージの現地での展開である。政府のODAでマンモグラフィーなどの日本製の医療機器は導入されていた。しかし、現地の医療者には撮影して読影する十分な技術がないため、病院の片隅で埃をかぶることになる。その結果、乳がんはかなり進行してから発見され、当然ながら予後も悪かった。

日本式のマンモグラフィーを用い、日本式のトレーニングを受けた技師が撮影し、日本式の研修で学んだ医師が読影する。また早期発見した患者を日本式の術式で手術し、治療する。これが用意した乳がん診療のパッケージである。機器だけ導入しても意味はなくパッケージに意味がある、と確信していた。

イークでは乳がん検診の実績はあるが、それだけではパッケージにならない。技師、医師の教育や治療ができるところと組む必要がある。補助金事業への応募の締め切りが迫る中、二人はネットを検索し、岡山大学医学部の岡田茂名誉教授らが長らくミャンマーへの医療支援に取り組んでいることを知った。1987年に国際協力機構(JICA)の派遣医として医療支援に携わり、C型肝炎の予防対策をはじめ現地の医療の発展と医療人材育成に尽力し、現地を熟知していた。岡田先生は今でも認定NPO法人「日本・ミャンマー医療人育成支援協会」の理事長を務めておられる。

大学医学部の大代表に電話して岡田先生にコンタクトをすると「ちょうど乳がんに取り組みたいと思っていた」と幸運な返事が得られた。その数日後、大雨の振る中、四谷の会議室で岡田先生と大石さん、藤原さん、園田さんは初めて会い、岡山大学の全面協力を得た。

経済産業省の補助金事業の初年度は、乳がん検診に関する調査から始まった。現地に行って、ODAで寄付されながら使われていないマンモグラフィーも見た。ミャンマーの医療者は懐疑的で「マンモグラフィーは痛いだけで、何も写らない」とまで言われた。医師を集めたセミナーで大石さんが「イークでは米粒大の乳がんも見つけることができる。当然、予後は良い」と言うと、聴衆の医師たちから「おおぉ」という声が上がったという。

2年目はいよいよ実証である。岡山大病院のほか、亀田総合病院、富士フイルムと組んだ。他のメーカーも回ったが、いずれも「ミャンマーのような新しい市場には興味がない」とつれない返事で、「やりましょう」と力強い返事をくれたのは富士フイルムのみだった。余談であるが、その後断ってきた2社のメディカル部門は売却され、1社は富士フイルムの傘下に入っている。

ミャンマー政府と交渉し、国立病院の中に検査室を設けることになった。13年12月には首都ヤンゴンの婦人科中央病院で乳がん検診をスタートできた。ただ、停電が多いうえ湿度が高いことから最新鋭の日本製マンモグラフィーを導入することは断念し、まずはイタリア製の旧型で我慢した。また、撮影した画像をネットで送り、現地の医師と亀田総合病院の専門医の二重チェックを計画したが、当初は容量の大きな画像を送る通信環境が確保できない。USBに落としてFEDEXでのやり取りとなるなど、試行錯誤が続いた。

不満が残る船出とはいえ、開始と同時に多くの乳がん患者が発見された。引き続き、第二の都市マンダレーでは医師や技師のトレーニングを経て、15年2月にデジタルのマンモグラフィーを備えた乳がん検診センターをスタートさせた。タブレットで読影能力を高めるための研修コンテンツも導入した。岡山大学の乳腺外科の医師が現地に赴き、ヤンゴン総合病院で手術もしている。岡田先生は「メディヴァと一緒にすばらしい仕事ができた」と当時を振り返る。

残念ながら、その後政治情勢が暗転し、クーデターにより強権的な軍事政権が再び支配した。このためミャンマープロジェクトは後退を余儀なくされている。世界から孤立した軍政のもとで交流は厳しく制限され、当時の医師の一部が国外に逃れたほか、安否が分からない人もいる。きっかけとなる韓国視察に加わり、2年目からはプロジェクトに参加した鈴木さんによると、フェイスブックを通じて医師と連絡を保つのがやっとだという。ヤンゴンのセンターは細々と動いているようだが、マンダレーの稼働は確認できない。

岡田先生は84歳の今も日本に来たまま帰国できなくなったミャンマー人の医療関係者や留学生を支援する事業に取り組んでいる。この3月末には自ら現地に入り、医療の現状を直接調べることにしている。メディヴァはそうした活動を側面支援することでミャンマーとのつながりを維持することになる。

(つづく)