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人事ブログ

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2023/08/07/月

寄稿:メディヴァの歴史

無人島に街をつくれ ー 先駆者列伝7:女性専門の健診センター、どん底からの再生

無人島の真ん中にみんなの力で用賀アーバンクリニックが建った。そのノウハウを元にクリニックの開業コンサルティングが始まり、訪問診療もしっかりと歩みだした。知らないことばかりで試行錯誤の連続ではあったが、ようやく人々が集まってきて、街づくりが歩み出した。今回は、女性向けの健診クリニックとして、年間5万人の健康をサポートしている「イーク」の足取りをたどっていこう。

2007年6月、医療経営のコンサル業務を掲げるメディヴァに深刻な相談が持ち込まれた。乳がん治療で定評のある、九州の専門病院が東京・丸の内に出した分院が行き詰り、助けてほしいというのだ。自由診療で乳がんの検査と治療を行うクリニックだった。東京駅の真ん前、丸の内の超一等地のビルに進出したものの、自由診療で乳腺科のみでは、いくら東京のど真ん中でも患者が簡単に集まるはずはない。いちばん多い月は2000万円もの損失を出し、すでに累積赤字は3億5000万円に膨らんでいた。

連帯保証をして債務を負った九州の本院はファンドに譲られることになった。「東京のクリニックを閉めるのは惜しい。自分も頑張るから誰か引き取ってくれないか」と理事長から懇願された。

こちらの見立ては、困難はあっても挑戦する価値はあるというもの。民事再生なので、負債は引き継がない。立地は最高で、理事長はこの分野では著名な医師だ。市場とニーズを見極めて戦略を練り直したら再生できる。但し、コンセプトは変えないといけない。乳がん専門の自由診療では無理だ。健診なら採算は合う。当時、女性専門の健診クリニックはまだ存在しなかった。女性の医師、看護師、技師による女性のためだけの人間ドック。女性からのニーズを考えれば将来性もある。あとはまともなマネジメントがあれば・・・。

リスクはあるが、将来性もあるなら引き取り手を探さなくても、自力で取り組めばいい。コンサル業務だけでは得られない実体験の積み上げになるうえ、新たな領域が開拓でき、理想の医療を前進させられ、社会貢献になる。一石数鳥という計算が成り立つ。

法人は民事再生手続きに入り、11月に旧クリニックを閉じ、その翌日から新クリニックを開業させた。必要な資金面では、東急不動産の支援も取り付けた。医院名はそれまでの「イーク(ihc)」を引き継いだ。Integrated Health Clinicの頭文字を取ったものだが、ihcには古代マヤ語で「風」を意味すると聞いていた。「Integrated Health」すなわち統合医療。女性の健康を統合的に支援する、と言う意味になる。イークの語呂は通りがいいし、アイウエオ順で上に来るから営業的にも良い。たしかに英文でも日本語でも3文字と短く、発音しやすく、覚えやすい。

月間2000万円の赤字に不安が無かったわけではない。いつもアドバイスをくれる亀田総合病院の亀田信介先生、省吾両先生は「経験上、健診・人間ドックは大きなハコじゃないと儲からない。立地が良くても150坪では小さすぎる」と心配してくれた。後に「これでメディヴァは終わったかも、と思った」と言われた。当時もっとはっきりと反対されていたら止めていたかもしれない、と大石さんは振り返る。ただ、「失敗は諦めた時が失敗。成功するまでやり続ければ、必ず成功する」という創業の基本精神に則り、新たな無人島の街づくりは始まった。ただ、この街づくりには思った以上の困難が待ち受けていた。

1年目の目標は人間ドックの受診者を1日20人に据え、営業開拓に励むとともに、それを支える人材の確保に動き出した。放射線の被ばく量が高く女性の健診に不向きなCT機など不要な機器を処分した。コストの洗い出しと業務整理という事業再生ではお定まりの手順も始まった。ところが予想もしない暗礁に乗り上げる。旧法人から引き継いだスタッフとの衝突である。

再スタート時の人間ドックの受診者は平均5人。「これ以上増やすと医療の質が下がる」というのが、転籍した人たちの言い分だ。12月に初めてドックの予約が7人入った日には「本当にこんな多い数ができるのか」と怒りの声があがった。こちらが掲げた20人との隔たりは絶望的なほど大きい。開業から3カ月で12人いたスタッフのうち半数が辞めてしまった。そして、新規に採用したスタッフも、すぐに退職してしまう状況で、気がつけば、最初にいたスタッフと同数が退職してしまった。さらに元オーナーの理事長まで翌月には退職してしまう。「一緒にイークを再生させよう」と固く誓い合ったはずが、法外な報酬を要求された。それがないとやっていけないほど彼の生活費は膨らんでいたのだ。初めから私たちを利用するつもりだったのかもしれない。見誤った衝撃は大きかった。

クリニックのスタッフがトップから現場まで大挙して出て行ってしまったのでは、日々の運営が出来ない。女性のための理想的な医療どころではない。「どうすれば運営できるようになるか」「少しでも理想の医療に近づけることができるか」。すがった先は、日ごろから親しかった聖路加国際病院だった。乳がんの診療、治療では都内でも1、2を争うトップ病院だ。ここと組めないだろうか。

大石さんらはブレストセンターの中村清吾部長に業務提携を働きかけ、レントゲンやエコーの読影、診察に当る医師の派遣や治療が必要な人の紹介先を引き受けてもらえた。聖路加にとっても、所属医師の派遣先を増やせるうえ、患者の確保にもつながる。ウィン・ウィンの関係ということになる。さらにイークの専門職員との間での症例カンファレンスも始め、全体の質的な底上げに努めた。

どうにか日々の業務は回せる態勢を取れたが、これで危機が一掃されたわけではない。引き継いだ07年11月以降も月々の赤字は膨らんでいる。前理事長目当ての患者が来なくなった上に、健診の受診者はすぐ増えるものではない。一方で新しい医療スタッフや事務職員の採用経費がかさみ、医療機器の導入でも100万円単位の費用が出ていく。新生イークは何とも強烈なショックにさらされた。毎週の役員会議では撤退判断のラインをどこに設定するかという深刻な議論が交わされるまでになった。

何よりも手を付けなければならないのは、受診者を増やすことである。引き継いで半年後の08年5月には一日当たりの受診者数が4人にまで落ち込んだ。必要なのは健診・人間ドックの契約だ。やはりイークの認知度を上げないとどうにもならない。

ここで生きたのが経営コンサルとしての蓄積である。まずは女性役員がいたり、女性社員の活躍に力を入れたりする会社を絞り込み、その健康保険組合にマーケティングをかけた。ちょうど特定健診制度がスタートした時期だった。男性社員ならメタボ指導が始まり、腹囲の測定や食事指導が言われ始めたことを覚えているだろう。メタボ対策の対象者はほとんどが男性である。女性の場合、メタボは少ないが、30代、40代の働き盛りの時期を乳がん、子宮がんが襲う。「女性は乳がん、子宮がん健診が重要です」との啓蒙活動や「男性の医師、技師、受診者がいない人間ドック」のセールストークは、ほぼ100%男性の健保理事長にはピンと来なくても、健保を実質的に動かしている女性担当者に受け入れられた。刺さったのである。

そのころから現場の空気も少しずつ変わってきたようだ。過去の思い込みを引きずってきたスタッフが去り、理念に共感して再生への意識を持つ人々が中心になったことで、職場の空気は明るく前向きになってきた。受診から1カ月以上もかかっていた結果報告書の送付を業務フローの見直しで2週間に短縮して、健保側のニーズに応えた。健診の運営を効率化して、短時間で済むようにしたことは利用者サービスの向上になるだけでない。個別の受診者に使う時間が短くなること稼働率の向上につながり、新たな受診者の受け入れ能力が高まる。

予約電話を取り逃さないためにシステムを入れ替え、受付スタッフが不足する時は、看護師ら医療スタッフも電話応対にあたった。さらに健保が人間ドックの項目として求める胃のエックス線装置も入れること。肝心の胃部が撮影できる技師がいなかったときは聖路加に頼み込み、1カ月で育成することができた。

健診シーズンにあたる10月には予約が一気に増え、売り上げは単月の黒字に。それぞれの職場でコスト削減や受診者の開拓に心を砕いてきたスタッフの顔色は明るくなり、再生の手ごたえが見えて来た。

とはいえ、これでハッピーエンドにはならなかった。この後に本当の試練が待ち構えていたのだ。

(続く)