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メディヴァの人事ブログ
私たちの日常、仕事、仲間、価値観などを
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2019年11月08日(金)New

私の経歴書-⑨-

久々の登場、“私の経歴書シリーズ”。第9弾はコンサルティング事業部の若宮が担当させていただきます。

私は半年前の4月1日にメディヴァに入職し、現在コンサルティング事業部の介護チーム兼海外チームに所属、リハビリ型デイサービス『ぽじえじステーション』の運営支援やベトナムのビンズンアーバンクリニックの運営などに携わっています。
さて、今回この経歴書シリーズの依頼をいただき、軽い気持ちで受けたものの、、、コンサルタントという職種が何なのかもわからずメディヴァの門を叩いた私が何を書いて良いものかと悩みました。私には輝かしい経歴はありませんが、人に自慢のできる出会いを中心にここまで30年ちょっとの人生を楽しんでいる様を執筆させていただきます。


=高校時代=

生まれは北九州ですが、小学校は千葉、中学校から東京とプチ転勤族として育った私は、高校は都内の某都立高校に通っていました。この高校を選んだのは小学校から続けているバスケットがそれなりに強いところがよかったから、学校が都立なのに綺麗だったからです。”とりこま”(というとご存知の方には高校がバレますが)で過ごした3年間で私のメンタルは育まれました。というのも、何の迷いもなく入部した女子バスケ部ですが、入学早々”シメ”からスタートする文化があります。”シメ”とは?それは上級生が下級生を指導する場のことです。なぜか先輩のことを先輩と呼んではいけず、上級生と呼びます。入部すると上級生に呼び出され、一列に並ばされ、部の規則をこわ~い雰囲気の中指導されます。一般的な身だしなみや、部内の規則はもちろんですが、今考えればなんじゃそれ!という独自ルールをさも常識かのように指導されます。体育会系あるあるですね。
例えば、
挨拶は人数分→上級生と会った時には上級生の人数分「(こんにち)っちわ!(失礼)します!」を言い続けます。10人いれば10人分、20人いれば20人分です。上級生が「もういいよ」というまで続けます。
同じ車両に乗ってはいけない→上級生と同じ電車の車両に乗ることも禁止です。乗ってしまったら次の駅で隣の車両に移ります。
と、まあこれらはほんの一部でとにかく思い返せばよく分からないルールに縛られ女バス生活がスタートし、なってないとまたシメられを繰り返し、自分が上級生になる頃には同様に下級生を変なルールでシメていたわけです。この理不尽さを自然と受け入れ、いつの間にかちょっとやそっとの理不尽さに負けないメンタルが鍛えられていた気がしています。数少ないユニフォームを奪い合いつつも、上級生からのシメに耐えともに過ごしてきた22人の同級生は今でもかけがえのない仲間です。そして、こんなちょっと変わった文化で育った”とりこま生”には何か通ずるものがあり、”とりこま”というだけで世代や部活は異なっても仲良くなれる不思議な縁があります。つい先日もベトナムのしかもビンズンで偶然にも”とりこま生”に出会い意気投合しました!


=理学療法士時代=

幼い頃からスポーツが好きで、両親に勧められたこともあり理学療法士になることを目指し専門学校へ入学しました。当初はスポーツリハビリに関わる気満々でしたが、非常勤講師としていらしていた先生の授業を聞いているうちに急性期病院でのリハビリに魅了され大学病院勤務を選択し、学校卒業後神奈川県の某大学病院のリハビリテーション部に所属することになりました。
いわゆるリハビリと聞くと皆さんは骨折後などの整形外科系のリハビリや脳卒中後のリハビリをご想像されるかと思います。この分野はもちろんですが、大学病院では心臓リハビリや呼吸リハビリにも力を入れていて、ICUにいる期間の超急性期から患者さんに関わります。1日の中でも状態が大きく変わり、命に直接関わる段階から介入するので責任も大きいですが、同時にとてもやりがいのある仕事でした。大学病院での6年半の臨床期間は毎日が楽しく、全く飽きることのない期間でした。が、臨床5・6年目の中堅PTに差し掛かった頃、何か一度外に出てみたい!という気持ちが大きくなり、青年海外協力隊への参加を考え始めました。


=青年海外協力隊に参加 ベトナムへ=

大学病院での臨床を6年半積んだ後、青年海外協力隊に参加することを決めました。派遣国はベトナムでした(ベトナムを志望していたわけではありませんでしたが・・・)。協力隊は派遣前に訓練期間があり、約2ヶ月間福島の片田舎で国際協力に関する座学と語学勉強に励みました。朝6時に起床し、6時半からラジオ体操とランニング、1日中勉強し23時就寝そんな毎日でした。ほとんどの隊員が派遣される現地の言葉を勉強するため、ゼロからのスタートになります。ベトナム語はアルファベットに近い表記なので簡単そうに見えますが、世界の様々な言語の中でも難しい言語とされています。その理由は発音です。ベトナム語には6声調あります。そしてaやoなどの母音はa、â、ă、o、ô、ơ と帽子がついたりヒゲが生えたりと謎めいた種類があります。声調や発音を一つ間違えると全く違う意味の言葉になってしまうのでとにかく発音が大切になります。でもこの発音、日本語には無い音なので本当に難しいのです、、、
いざ現地入りをして、2ヶ月間の訓練はなんだったのか、と打ちのめされました。まず全くスピードについていけず聞き取れません。そして北部と南部の発音の違い!これはもう別の言語レベルに違います。日本で勉強する際は標準語である北部弁を習います。しかし、私が赴任したのは南部の病院。勉強したことが何も通じない!?段階からのスタートでした、、、泣
私はベトナムのカントーという都市の国立病院に赴任しました。カントーをご存知の方は少ないかと思いますが、ベトナムで5番目に大きな指定都市です。ベトナムの最南端、メコンデルタ地方の中心都市になります。実はここカントーはいわゆる南部弁よりもさらに訛りがあります。ホームステイ先に初めて着いた日はもう「この人たち何語喋ってるんだ!?」と絶望的でした。
メコンデルタ地方の中核病院的役割を担う赴任先の病院のリハビリテーション科には1名の医師と14名の理学療法士がいました。彼らにとっても初めての日本人、探り探りのスタートです。最初の3ヶ月はお互いにフラストレーションのたまるスタートでした。それもそのはず、これまで日常生活に必要なベトナム語は学んできましたが、医療の専門用語は語学学校でも本当に基礎レベルしか習ってきていないため同じ土俵で話ができなかったからです。言いたいことは沢山あるが言っても伝わらない、同僚たちもいろいろ言ってくるが意味が分からない。でも不思議ですね、あいつ全然ベトナム語喋れない、と言っている声、絶対今私の悪口言ってるな、それだけはなぜか感じ取れました。笑 言われっぱなしなのが悔しくて、いつか言い返してやる!と思って必死に勉強しました。患者さん、実習に来ている学生、ホームステイ先の家族、同僚などたくさんの人に付き合ってもらい発音の練習をしました。
誰よりも面倒を見てくれたのはリハビリ科の技師長でした。彼女は2人の子を持つ母で、誰よりも仕事に対する、リハビリに対する思いを持ち、いつも真面目に就労時間ギリギリまで働く人です。彼女は私の赴任当初に「2年後にベトナム語で喧嘩できるようになろう」「毎日5行でいいから、どんなことでもいいからベトナム語で手紙を書いてきて」と言ってくれました。それから帰国までの2年間ほぼ毎日彼女と交換日記をしていました。私の書いたベトナム語を添削してくれ、彼女の書いたベトナム語を読み勉強する。そんな毎日が私のベトナム語力を格段に向上させ、同時に彼女との固い信頼関係が築かれました。同僚たちのために定期的に開催していた勉強会の資料も、彼女が翻訳のチェックをしてくれ、終業後に彼女の家に行き夜遅くまで一緒に喋る練習をしてくれました。休みの日にもカフェに誘ってくれたり、家族の行事に誘ってくれたりと、とにかく家族の一員のように接してくれました。私は日々過ごしながら「自分の2年間はこの人のために使おう」と決め、なんでも相談し、なんでも言い合い、彼女の期待に応えられるようなんでも全力で取り組みました。周りに日本人が一人もいない環境で彼女のように絶大な信頼を置ける存在に出会えたことは本当に幸運でした。任期後半にはベトナム語で喧嘩もできるようになり、私たちは赴任当初に掲げた目標を果たしました。

若宮さん①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

=ベトナムの医療=

一般にベトナムの医療は、日本の40年前の医療と言われています。一部の領域は日本を始め、様々な国の支援を受け先進国レベルにありますが、国の医療制度・社会福祉制度から医療従事者の仕事への姿勢、スキル、また患者の病気に関する考え方も日本とは大きな差があります。
リハビリに関しても同様です。医師のリハビリへの関心は低く、リハビリのオーダーが出るのが遅いため、二次障害が完成してしまっているケースもしばしばです。療法士も患者にリハビリを「してあげる」立場、曲がらない関節を力任せに無理やり曲げる治療や、患者の生活を考慮していないリハビリ。おまけに患者自身は療法士任せの他力本願、、、と課題は山積みです。病気になったり、怪我をしたらもうその後の人生をあきらめるしかないという状態の患者さんにたくさん出会いました。
そんな患者さんを目の当たりにし、なぜこうなのか?同僚たちと過ごす中で、一つの大きな原因と私が感じたのは教育システムでした。基礎的な医療知識をもとに評価をし、評価結果からこれを考察し治療を考える、といった一連の流れがまったく行われず、この病気・怪我はこの訓練、それだけを教え込まれてくるので応用がききません。基礎知識も少ないので医師と同じ土俵で会話をすることができず病院での立場も確立できていない状況でした。
私はとにかく色々な科に回り、リハビリ科の同僚だけではなく各科の医師や看護師ともコミュニケーションをとりました。意識的に彼らの目に映るよう効果を出すリハビリを、患者を笑顔にするリハビリを実践し、リハビリの存在意義を示すようにしていました。同僚たちには教え込まれた考え方ではなく、こんなこともできる、こうすればもっと良くなるというのを一緒に臨床する中で沢山経験してもらうようにしました。医師、看護師、療法士それぞれを対象に勉強会を実施し、日本でのリハビリの情報発信や、今すぐに実践できる実技の技術伝達などを行っていました。
もちろん彼らにとってみれば突然やってきた”いちボランティア”にすぎず私の発言が大きな力を持つわけではありません。ですが、小さな効果でも患者さんはついてきてくれ、結果を残せば医師も認めてくれました。こういう小さな変化でも継続すればいつか彼らも”あの日本人ボランティア”が言っていたことは間違っていなかったと気づいてくれる日が来るはずだと思い2年間を過ごしました。

若宮さん②-1若宮さん②-2

 

 

 

 

 

 

 

 

=協力隊での経験とメディヴァとの出会い=

「ボランティアは自己満足」と良く聞きます。それは間違っていないと私は個人的には思っています。私は私の2年間を充実させやりきって帰国してきました。しかし、それが今も赴任先の病院に結果として残っているかと言われれば、おそらくNoです。ここからは私の個人的な考えです。ボランティアはやはりただのボランティアであって何か責任を課されるわけでもなく、力を持つわけでもなく、相手もリスクを負っていない。これでは何かを変えたいと思っても変わらないと実感しました。もちろんボランティアを否定するわけではありません。ただ、このまま何代もボランティアが入り続けたからその病院が変わるのかと言われれば違うと思いました。ではどうすればいいのか?そんなことを帰国して以前の職場である大学病院で再度働きながら考えていました。このまま、また大学病院で働くか?知りたい情報はすぐに手に入る、日本語ですぐ指示できる、チームですぐ連携が取れる!日本の医療ってみんなが言うほど悪くない!でもあのベトナムの医療を知ってしまった以上放っておけない。。。悶々とした日々が続いていました。
そんな時にひょんなことからメディヴァのビンズンの話が友人づてにLINEで回ってきました。メディヴァのことも、医療コンサルという言葉も何も知らなかった私ですが、話を聞きに行き少しずつこの新しい世界に魅力を感じるようになりました。ボランティアではない形で、ビジネスとしてベトナムの医療の発展に寄与したい、お世話になったベトナム人へ恩返しをしたい、そういう気持ちでメディヴァの門を叩き今に至ります。


=第二の故郷 ベトナムへ再び=

この8月からビンズンアーバンクリニックの運営にも関わらせてもらっています。大好きなベトナムに戻り、今の仕事につけていることをとても光栄に思います。ビンズン新都市はまだ街づくりの段階で日々変化があり、とても刺激を受けます。しかし、人口はまだ少なく、時間の流れもとてもゆっくりなビンズン新都市ですので、クリニックの運営も順風満帆とは言えない状況です。
クリニックの存在周知のための活動や、高品質なサービス提供のためのベトナム人スタッフの指導、オペレーションの改善など自身の社会人経験の中でも初めてのことばかりですが、海外チームの先輩方の指導の元、楽しんで仕事をしています。
現在、当院の患者さんのほとんどが日本人の駐在員またそのご家族です。ベトナムはインターナショナルの病院であっても心から安心して受診することのできる医療機関が少ない現状です。ご利用いただいている患者様からは近くに日系のクリニックがあることを大変喜んでいただいています。慣れ親しんだ日本、また家族の元を離れ、異国の地で働き生活をする在越日本人の皆様がより気軽に、安心して受診することのできる医療機関となれるようスタッフ一同頑張っています。
外でご飯を食べていたら牛が現れる、そんなビンズンを早くも愛せつつあります。ビジネスの世界も、コンサルの世界もまだ踏み出したばかりですが、楽しむことを忘れず、自分の信念を持ち邁進していきたいと思っています。

若宮さん➂-1若宮さん➂-2